子戦争/ロビン・ベイカー河出書房新社

驚異的なデータ収集に基づいた、性行動における精子競争を述べた論文を、先月紹介した。同じ著者によって一般向けに書かれた本書は、日常での様々な性行動パターンをショートストーリーにまとめ、その話を解説する方式で論理を展開するので随分と読み易くなっています。
前回考えもしなかったデータと論理に驚かされたが、今回もまたやってくれました。ペニスの先端にファイバースコープを取り付けて、性交時の膣の中を可視化させたのです。なにか行くとこまで行った悪趣味漢のようだが、得られた映像は、あのデスモンド・モリス(「裸のサル」の著者)が言葉を失ったという衝撃シーン。
僕は全く疑いもなく、膣の奥は管状になっていて最奥部が子宮だと思っていました。よく知っている子宮図を観ても、下方にコップを伏せたぐらい空間がある膣(これもイメージ違いの原因と思うが、常態ではほとんど塞がっています。考えてみると当たり前か)と、それから直線的に子宮頚管、次に翼を広げたような子宮が描かれています。普通に考えれば、断面図だと思ってしまうよな。実際は全く違うんです。

〜その時ペニス君は何を見たか?〜
実は、膣の奥は行き止まりになっているんです。ペニスのピストン運動が繰り返されると、膣の一番奥に空気が溜まり、空間が作られます。そうこうしていると、生命神秘の一瞬が訪れます。なんと!前方上方からゆっくりと何かが伸びてきます。まるでそれ自身の意志であるかのように。そうです。その「象の鼻」のようなものが、子宮頚管なのです。射精によって放出された精液は、その「象の鼻」先に精子プールをつくります。「象の鼻」はそのプールに鼻をつけ、精子達は必死にその管を登り始めます。
数分もすると、あたかも満足そうにその「象の鼻」は縮みはじめ、膣の天井へ上がってしまいました。

なっなんじゃこりゃ〜ぁ!
彼の理論とデータは、新しい知識と驚きを与えてくれます。37話ものショートストーリーは人間の性行動(日常セックス・不倫・マスターベーション・オーガズム・同性愛・レイプ・売春等)が、余すことなく描かれており説得力があります。
しかし、ひねくれ者の僕は一言いいたくてウズウズしてくるのです。この手のダーウィズムにしてしても、動物行動学にしても生物構造主義にしても、読んでみると、その度成程と納得してしまうのですが、更に読み進めていくと頭の隅で[?]が点滅しだすのです。
生物の進化の動機は、初源においては単一だったのかも知れません。(生存への自然淘汰か?)しかし、多様化し、システムが複雑化するに従って、様々な論理機構が生まれてきたのではないでしょうか。ある情況ではこの理論、この情況ではあの理論というかなりアバウトではあるが、対応性に富んだ理論の応用を取っているのではないだろうか。しかも、身体器官によって違う理論の採用を取り、さらには自己増殖を続けると同時に解体・変更を行なってゆくスーパーシステムをとっている僕らは、たったいくつかの基本動力によって動いているとは考え難いように思います。
僕は素粒子論のように、位置を確定すれば速度が分からず、速度を知ればどこにあるか知る術がないことを承知で、それら細部の論理を知ってみたいし、いろんなシステムが絡み合っているダイナミックな「生」を、味わってみたいと思います。
精子競争は、ある局面では正しいのかも知れません。しかし、膣の天井からぶら下がっている子宮頚管は、何を想ってそんなところでペニスとの出会いを待っているのでしょう。
実は、最後の3行がカヨちゃん(嫁さん)の反発を買って、ワープロ入力拒否にあいました。彼女の言うことはもっともなことで、僕の中にある男性中心主義が完全に暴かれてしまいました。無意識層のことであるとは言え、うっと詰まってしまい、そうか偉そうなことを言っても、強固な差別幻想に囚われ、他人を傷つけているのだなと反省した次第です。問題提起の意味を含めて、そのまま掲載します。

こどものとも世界昔ばなしの旅シリーズ/福音館書店

こんなに外れがない絵本シリーズは、他に思い浮かびません。
世界の大小民族の昔話を、その民族のもっている文化に合う絵で書いてあって、本当におもしろい本です。世界の組み立て方が根本から違うのに、oh!と新鮮な驚きと共感をもって読めます。これって何なんだろうなと、小首を傾げるほど入射角度の違う視点はなかなか味わえませんぞ。
子どもたちもちろん気に入っています。彼らと話していておもしろいのは、神話・民族なんて考えてなくて、単独でその絵本の世界と接しているんです。だから僕なんかが、自分の世界枠との差異に感嘆するのですが、彼らは彼らの世界枠のなかに、様々な民族世界を住まわしていく感じのようです。すごいなー。
ある日幼稚園の我が子が、僕の本棚から南米民俗学の本をもってきて、石像の一つを指差して「お父さん、チャマコがいた。」と、教えてくれました。
そうですチャマコは僕らの身近にいるのです。

パンダのanan/小泉今日子 マガジンハウス

以前、書店でこの本を見かけ立ち読みしたことがある。
毎頁にポラロイドの写真が載っていて、軽妙な文が添えてあった。その写真も文も良くて、あーいいな、いつか全部を通して読みたいなと祈願したものである。
やっと僕の元に届いたこの本をじっくりと読んでみました。力の抜けた自然な文章や、写真をとること写真に写ることを楽しんだり、映像と文とが肩肘を張らずに共有していて、ほーと感心してしまいました。
感想文を書き続けていく間には、自分の体調の善し悪しで苦痛を感じたりする時がある。そんな時、後で読み返してみると、その心の重たさを隠すために言葉が不自然であったり、妙な文体で全体を誤魔化そうとしているのが分かって、大きく落胆してしまいます。
彼女にもそういう時が何度も訪れていて、そんな時は重い心を重いままに、重いテーマで、重く書こうとしている。そうやって書いてきた文章が、最後には、えーい!重苦しいや!と気持ちの反作用が生まれて弾け跳び、自分の精神状態を回復している。見事なものだ。書く行為の最大の功徳を、自然に体得している。恐るべし、表現者・小泉今日子。

アメリカの夜 ABC戦争/阿部和重講談社

先月読んだ彼の本「インディヴィジュアル・プロジェクション」が気になって、今まで刊行された本を再読しました。特に「アメリカの夜」は、以前はあまり良い印象がなかったのですけど、読み直してみて、又その後彼が書き続けてゆく作品を読み通してみると、どこが自分で気に入らなかったのか、何を僕が見落としたのかが良く分かり、大いに反省しました。
先月の感想文を読んで「アメリカの夜」を読むまいと思った人に、心から陳謝します。阿部氏の作品は読んでください。出来れば「アメリカの夜」「ABC戦争」「インディヴィジュアル・プロジェクション」の順で。
作家という人達が何を想い、膨大なエネルギーと数えきれない文字を連ね、又消していったのか静かに想像してみます。それと同時に、持続してゆくことによって、上手くなることや枯れてゆくことが、やはり一人の人間の中で生起しているのだなと、深く考えさせられました。
今まで僕が無責任に書いてきたことが、未熟であることは自覚していたつもりでした。しかし知らず知らずのうちに、未熟であることに開き直り、意識の感性を研くことを怠ってきたことに気付き、心から恥じ入っています。

復讐法廷/H・デンカー文春文庫

何の制約もなく、自分の好みにまかせて読む本を選び、それについて独断的に推薦する。この気楽さの為、1年以上もこの感想文を書き連ねてきました。じゃあ読んでみようかという貴方達のことは、一応気に留めていながらも、自分の読書歴の進むがまま、選本してきました。だから、僕の好きなリーガルサスペンスにしても、グリシャムや、コーンウェル等長編作家を、安易かつ強引に紹介してきました。しかし実際には、書店や図書館で本を手に取り、その量に躊躇すること度々であったでしょう。
ありました。手ごろな一級品のサスペンスが。文庫本で350円足らず。しかも陪審員制度や、弁護士・判事などの仕組みが良く分かり、今後この手の本を読む予備知識を得るには、うってつけの好書です。
娘を強姦殺害された父親が、法の網目からすり抜けた犯人を殺害した。すぐに彼は出頭し、裁判を要求する。娘の事件を白日のものにするために。この弁護不可能な被告の運命は…。
緊迫する法廷シーンのみならず、法と人間の関係を問い正す魂への訴えが、胸を熱くさせます。

にせニッポン人探訪記 ー帰ってきた南米日系人たちー/高橋秀実草思社

戦前だけでも24万人にものぼる人々が、一攫千金を夢見て、又は貧しさからブラジル、ペルー、アルゼンチン、ボリビアへと旅立った。そしてほとんどの人達は、2度と日本の土を踏むことがなかった。
平成2年入国管理法が改正され、ニッポン人の末裔には「定住者在留資格」が認可された。渡航した日本人の子どもや孫たちは、他の外国人労働者とは区別され、帰って来て働いても良いですよという、一見慈悲深そうで、実は国際労働情況の中での、日本の外国人労働者完全締め出し体制隠しの制度です。
そうは問屋が卸さないのが人間で、本物の末裔は、とっくの昔に異国で死んでいるのに、死んでいる末裔の名を語った人が、怒涛の如く入国してきます。だれが本物でどいつがニセ者か…。
片言の日本語で、異口同音に「ニッポン人は正直でよく働く、その血が流れているボクもよく働く。」と白い歯を見せて大きく笑う。彼らは日本にあっては「ニッポン人」でペルーに居る時は「ペルー人」。疑問視する日本人を、そんなこと当たり前じゃんと笑い飛ばします。こうも堂々と笑われると、そうかな、まあ民族なんてそんなもんだよな、と妙に納得してしまいます。
そんな屈託も無く生きてゆく彼らの血に、少し嫉妬してしまう僕です。

文藝春秋「少年A犯罪の全貌」98・3月号

問題になっている少年Aの調書を読んだ。
気楽に書ける話題でもなく、気が重くなること一頻りだし、不安定ではあるが、立場を表明した上で、今後の問題を考えたり、反省したりしたいと思う。文春記事で大きな問題は、公益性の多少による情報の公開と、事件をどう考えるかの2点だと思う。当然ながらこの2点が絡み合っているので、問題は複雑になっている。

僕の結論から言うと、情報の公開性はもっと高めるべきである。そして、今回の記事は載せるべきではない、になる。調書の前に、立花隆が掲載にあたっての正当性を述べている。それによると、事件が社会的に無視できず、国民全ての問題に関わると考えられる時、公益性が優先され、その情報は公開されるべきであるとの主旨。当然ながら少年法の理念は尊重しながら、情報の事実を確認した上で、となっている。基本的には僕もそう考えます。では何故立花氏はGOで、僕はNOなのか。実はここにこの問題の最大の困難があります。
公益性の優先度を誰が判断するのか、公開されるべき情報とは何なのか。公益、国民等の概念の総意とは?

具体的に今回の調書で考えてみましょう。この調書を読むと、殺害情況が冷静に、しかも坦々と語られています。書かれているこの文体は、少年の文体ではないのですが(検事及び調書の文体である)読むと少年が迷いもない真直ぐな目で、口元は自嘲気味に笑みでも浮かべているかの様な印象を与えるぐらい冷徹です。そして残酷です。語られている内容は事実に限りなく近いのかもしれませんが、語られ方は事実を隠蔽する何ものでもありません。そしてその隠されたものが、本当は知らなければならない情報なのです。
僕も含めて、この調書を読んだ大多数の人は、少年への憎悪と特異性(自分に関係ねえや)を増すだけでしょう。これは、この事件の最悪の受けとめられ方です。多くの人が読んで問題を考える機会にすべき情報のされ方とは思いません。
混同してはならないのは、調書とは何かです。調書とは、裁判で事実を確認し、被告人の将来を判断するための資料なのです。少年の置かれた現代の問題や、国民全てが考えてゆかなければならない問題として考えられた資料ではないのです。そういう意味では、調書は情報の一部です。

では調書の全面公開はだめなのか。違います。今回の調書においても、少年を取りまく環境、心情発露、学校、親、人間、世界との関係を考えている箇所などは公開されるべき情報であると思います。(個人の匿名や人権への配慮の上で)また、調書も各種あって家裁調査官による調書などがあり、殺害の情報中心の調書だけが全貌として情報を流されるのはおかしいと考えます。
殺害がどんな手口で、どんな順番でどんな風に進行したのか、これを知ることがこの事件を知って、自分の、そして現代の問題として考えることなのでしょうか?
そして何よりも、調書で語る少年の親や、被害者の親のことを考えると、正直に言って胸の潰れる思いです。いいや、こんなヒューマンな言葉で言うのは止めます。親達の人権を完全に無視した犯罪であると思います。

彼らの個の尊厳を認めない公益性など僕は認めません。
情報の特権化された専用は、許されるべきでもなく、裁判所や警察・政府・マスコミもその例に漏れません。はっきりとした公開のラインを引くには、それこそ多くの問題があって難しいと思うし、ケース・バイ・ケースであるとも言えます。しかし原則としては、限りなく情報は公開する。ただし、公益性の名の基に個人の悲しみを踏みにじる事は許さない。これが僕の基本です。
今回の少年Aの調書を考えてみると、現在の過剰反応しているマスコミ情況のなかでは、親の悲しみを増すことはあっても、現在の問題として冷静に考える資料には成りえないのではないかと考えます。調書の中での、殺害の手順は非公開、少年の考え、学校環境等は公開、同時に、他のこれに類する調書も公開する。十数年の後に、残りの資料も公開して手続きを取ることによって、その情報を知ることが出来るシステムをつくるべきだと考えます。

最後にその制度としての原案を記しておきます。先に書いたように、個人の人権を最大限に考慮した地点で、第3者による情報公開の第1次選択を行なって、可能な限り公開します。次にケースによって数年から数十年後に、残りの情報も全て公開します。ここで第1次公開における選択の是非を判断して、現行の第1次公開にフィードバックする。当然ながら、討議・選択過程も公開します。この様な制度の上でないと、事件の度に公益性とプライベイトの問題が感情的に叫ばれ、単に好奇の目に曝された、加害者・被害者関係の人々の無念の涙が流されるだけです。
常に可変的で、判断と選択は、限りなく公開された情報において行なう。そんな制度であるべきだと考えます。

この問題については、反論がある人が多いのではないでしょうか。共に真剣に考えることのみが、この事件の唯一の救いです。多くの返信を求めます。

現代思想の冒険者たち19 クワイン{ホーリズムの哲学}/講談社

僕は、偉そうな哲学者が知たり顔でなにかを言ったり、政治家連中がよくも白々と「国民の為に…」などと言っているのを聞いて、思わず文句を言ってしまう。僕は、俺が言っていることが正しいのだ、否、控えめ目に言っても、ほとんどの人が心の中ではこんなに感じているはずだと、確信している。
その様に判断している根拠は何だろう。その意見に到達するまでに、自分の中での「真」だと思われる「考え=命題」を繋ぎ合わせ、積み上げ、発言する意見を作り上げる。こんな風に書くと妙に理屈っぽく感じるが、よく考えてみると、どうもその様な気がする。ものを考えるには、立脚点が必要だと考えるから。
「他人の物を盗ってはいけません。」「1+1=2」「死んでいない人間はみんな生きている。」「夢屋は不況の中でヒマになり、三原はお陰で哲学の本をゆっくりと読めるが、お金には頭を悩ませている。」(思わず震える筆で長々と)「AはBである。CはBである。故に、CはAである。」この様に明らかだと思っていたり、体験した知識を元に、考えを応用したり構築したりしている。
僕らはそれでまあ、生活してなんら不自由しないのだが、哲学者の中には、この明らかに「真」と思われる「命題」は本当に正しいと言えるのだろうか、何を根拠に「真」だと言えるのだろうか、もしそれが「真」でなければ「真」はあるのだろうか、「A=A」は間違いなんだろうか、と真剣に考えている人達がいる。
そんな面倒なことを考えるのは、酔興な人々に任せていればいいんだと思うのも勝手だが、彼らの解答で「A=A]は「真」とは言えないし、「真」でもある、又は、命題として成り立たないなどと言われると、おいおいちょっと待てくれよ、と思ってしまう。

「外的世界についてのわれわれの証明は、個々独立にではなく、1つの集まりとしてのみ、感覚的経験の審判を受けるのだ」
『論理的観点から』

簡単に言えば、「真」と思われる命題は、1つ1つ独立して存在しているのではなく、言説全体がネットワークを形成していて、命題1つ1つがその一部である。ある命題が否定されたりすると、そのつど修正・変動が行なわれ、言説全体が変容していくという。なんだそんなことか、それなら分かる気がするよと思う。そんな風にして自分の考えを修正したり、反省したりはしょっちゅうだからだ。

えっ?でも待てよ。それじゃ本当の「真」は確定されないということ?
カントの言うアプリオリ(認識において先なること)は無いの?目の前の焼酎はどう認識したらいいの?ほら、グラスに注げばトクトクと音をたてて氷を揺らすし、飲んでみると…うん、美味い。これってどういうことなんだろう?
クワインは、言語哲学、記号論理学、認識論に大きな影響を与えています。一見難しそうですが、簡単な例を自分で考えながら読むと、本当は身近な問題なんだと分かります。他にも「理論の決定不完全性」「翻訳の不確定性」「存在論的コミットメント」「指示の不可測性」「存在論的相対性」「認識論の自然化」など、興味あるアイデアが満載です。

こどもは親が教育しろ!/小浜逸郎草思社

はっきり言って、教育本とか嫌いです。
何故かと問われれば、理由は簡単です。どういうわけか、大概の教育本が「こども=善=被害者」的観点の本なんです。もちろん、反転した地点が僕の教育ビジョンだと言うわけではないのですが、あまりにも単純すぎるし、楽観的で痛みが感じられません。
この本、結論から言うと、僕自身は「?」を付けますが、前半の各教育論を分解し、もうこんなくだらない教育論は止めてくれ、バカも休み休みにしろ、と怒っているのには、言い方はともかく同感です。
では著者の教育論はというと、現在の学校教育の認識として、日本経済成長率、政治形態・国民の理念の変移を『教育白書』等のデーターを基に論じています。いじめの問題、登校拒否、援助交際、こどもの文化などを考えた時、「昔は…」などの論理がまったく無駄であり、こどもの現意識と学校教育システムとのズレが根本問題だと主張します。故に、新教育システムの提案と具体的立案を提出します。主なところでは「4・4・4」制、午前中のみの授業、義務教育学校法人の私立の廃止、多種の私立学校(午後のみ)の設立、学区の拡大と転校の自由、高校・大学の多種化…。
個別に考えると、無謀な提案に見えるが、細部の関連は一貫している。この提案に、僕自身はやはり疑問もあるが、これぐらいの根本的対応は、もはや避けられない現状ではないかと思っています。
耳あたりの良い教育者のお経や、「金八」ファンの保護者に誰しもうんざりしていることは確かで、いち早く気付いている当事者のこどもと教師は、もう「キレて」いる。(僕は、この言葉が嫌いです。)