祝婚歌/吉野弘

二人が睦まじくいるためには
愚かでいるほうがいい
立派すぎないほうがいい
立派すぎることは
長持ちしないことだと気付いているほうがいい
完璧をめざさないほうがいい
完璧なんて不自然なことだと
うそぶいているほうがいい
二人のうちどちらかが
ふざけているほうがいい
ずっこけているほうがいい
互いに非難することがあっても
非難できる資格が自分にあったかどうか
あとで
疑わしくなるほうがいい
正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気付いているほうがいい
立派でありたいとか
正しくありたいとかいう
無理な緊張には
色目を使わず
ゆったりゆたかに
光を浴びているほうがいい
健康で風に吹かれながら
生きていることのなつかしさに
ふと胸が熱くなる
そんな日があってもいい
そして
なぜ胸が熱くなるのか
黙っていても
2人にはわかるのであってほしい

祝婚歌/谷川俊太郎編 書肆山田

実に、27年間会っていなかった友人の結婚式に出席した。
その日、男鹿半島の突端まで足を延ばし、日本海を眺めていると、荒れ狂う海と凪の海の真ん中に、夕日が静かに降り立って、身を沈めていった。
僕は突風の中で「えぐ来たな」と満願の笑顔で握手を求めた彼の声が、聞こえたような気がした。

ぼくの命を救ってくれなかったエヴァへ/切通理作編・著三一書房

去年の3月に、「新世紀エヴァンゲリオン」について書いてみた。その時は「エヴァフィーバー」の真っ最中で、あっちこっちの雑誌では特集が組まれたり、謎本・解説本の花盛りだった。そしてそれから春・夏の完結編が上映され、時代は「エヴァ以後」となっている。あれは何だったのだろう。
様々な事件や熱中の後、その時の自分の言動を振り返ってみると、大概は浅はかで赤面することばかりである。世の中のムードや倫理から自由になれておらず、巷にそのことに触れる情報が無くなれば、間違っていようが、他人を傷つけていようが考えようともしない。今向き合っている世の中の流行や、情報に身を委ねるのに一生懸命なんだ。
ここまで書いて、暗に批判するのが朝日新聞調であるが、実際には仕方無いんです。人ってそんなもんなんです。その時その場で制限され踊らされ、後になって反省を迫られると、他人のセイにする。それで良いとは思っていないけど、基本的には人はその様に生きています。
1年、5年・・・数百年後に、その事件のことを再考することがあると、人は息を潜めてその風の通り過ぎるのを待ちます。反省は滅多にしません。だって、今の自分に通じるのは過去の禍ちを犯してきた自分なんだから。
それでも、その風を受けた自分の心の中に、針先ぐらいでも良いから、全面肯定ではない一点の悔悛が、生まれる感性は失わないようにしたいと思う。
切通理作と宮崎哲弥の対談は、頷首出来ない箇所は多いけれど、その多方面への話題飛躍が、思わぬ跳弾を生んでハッとすることがあります。

現代思想の冒険者たち28デリダ脱構築/講談社

世の中には、色んなことを考える人がいるもんだ。
勿論僕達だって一人一人は、他人に本当のところ理解されるはずもないことを考えたり感じたりしている。「君のこと良く分かるよ。」と言われると「俺の気持ちなんか他人に分かるもんか。」と思うし、かといって他人に「お前が何考えてんの、全然わかんないや。」と言われると、むきになって喋り始めたり、分かってもらえない疎外感や、孤独を感じて「誰か俺のことを分かってくれよ。」と嘆いたりする。
そう考えると人間って本当に身勝手なもんだと思う。
この身勝手な振る舞いをよく考えてみると、僕らは他人とどこか一脈通じるものを持っているという前提、そして僕のコトと他人のコトがあって、言葉や何らかのコミュニケーションによって、それが伝達認識されるという当然視があるようだ。だから〝分かってもらえない〝という不満な感情に、支配されるのだ。
そのことを大上段に言われると、ハイハイあなたのおっしゃる通りです。僕らはそんな常識の枠のなかで考え、囚われていますよと白けてしまう。
デリダは、わけ分からない言い回しや文体で、どうもそこらへんを言おうとしているようだ。実はようわからん。
「貴方達が常識だと思っていることは、間違っているんですよ。」という文章は、同じ常識として通用する世界の文体で表現しているにすぎなくて、同じ穴のムジナ。お前に言われたかあねえよ。ということになる。
僕らの世界は、つき詰めると「あれ」と「これ」は違う、という基盤に乗っ取っている。じゃあどう違うか「あれ」と「これ」。
長い/短い綺麗/醜い善/悪内部/外部男/女真理/虚偽自己/他者などと言う2項対立の概念が基本になっている。そこに差異が生まれ、それぞれ「あれ」と「これ」が確定し、固定すると考えている。その考えが背景にあって、言葉が生まれ使われているのだ。

[成程そうだと認めよう。それに気付いたからってどうしようと言うんだ。すでに気付かないと言う対立項にあるじゃないか。]

その構築から脱けるとは?
僕の名前は、「徳さん」という。これは「信夫くん」でもなければ「京子さん」でもない。個々の名前は、その他多くの(名前)あるシステムのなかで他の(名前)と区別差異されているに過ぎない。これは残念ながら、(名前)が差異されているということであって、その(名前)によって名ずけられた人の「固有性」を表現するものではないのだ。
もう少し言うと、「徳さん」は「信夫くん」と入れ替わることが可能な名前システム内の一つである。他の名前と同等な差異対象でなければ、名前として成り立たないからである。
その人の名前は、まさにその時他の人の名前になり得る名前でなければならない。
これを考えてみると、ある人を名前をもって呼ぶということは、その人の「固有性」を抹消するということと同じことなのだ。
「名付けることは、名付けつつ=名を奪うことである。」言葉に触れるやいなや、自分も他者も主体など吹き飛んでしまうし、禁止されるのだ。

[もうダメだ。言葉を使った時点で、その構築につかまるんだし、言葉無しでは考えられん。あ〜俺たちゃ浮草さ〜。]

僕も学生の時これらの考えに触れ、それを言っちゃお終いよ。もお何処にも立つ瀬がないじゃんかと思ってしまいました。ところがデリダはもう少し先まで言っていたんですね。その時は理解出来ませんでした。
ニヒリズムに陥るのは、思考の手抜きです。デリダは言います。自己同一性にいつまでも留まっていないで、どうせ他者性と触れるのなら、他者となりゃいいやんか。他者と深く関わって、その差異を反復し運動しろよ。
現在は、今だけでは時間は止まってるんだ。過去の思い出や後悔、未来への怖れや期待があって、初めて時間は動きだすんだ。時間は、過去・現在・未来という時間的差異を内包し、行きき反復することで生まれ続けるんだ、と。

[ホホウ。自己の中に、他者が生まれるのか。なにか分かったような、分からないような]

そう、多分〝分かった〝という文法を、デリダは用いたくないんです。だから分かったような、分からないようなが、最も良い感想なのかもしれません。俺の気持ちは、俺の中の他者への呼び掛けであると同時に、他者からの呼びかけへの応答である。
よかった、僕らは孤立していないし、孤立できない。

現代思想の冒険者たち13ラカン鏡像段階/講談社

「家庭の医学」と精神分析の本は、読み始めると止められなくなる。
これがまた、どれを読んでも思い当るんだよな。「えっ、これって俺の事。」「あっ、あいつこんな面あるよな。」などと思い至る。そして、大概すぐ忘れてしまう。この重大事を覗き見る快感と、今月の占いを読む気楽さの両面が、これらの本の面白さだ。
まずは気楽にラカンの発想で遊んでみよう。
人は生まれてから乳児期の頃、まだ神経も発達しておらず、外界との境界もあいまいである。(自分)がもしあるとすれば、母子一体の状態全てがそれにあたっている。しかし、その至福の時期は長く続かない。
次第に子供は、(自分)という中の母親と、それ以外のモノに気付き、分離し始める。いくら泣こうが、不快だろうが、意に添わなく存在する母親がそこに居るのだ。「お腹がすいたよ。」「何かビチャビチャと気持ち悪いよ。」と泣いて訴える。最終的にはその要求も満たされてゆくのだが、それまで泣かざるを得ない不快感、不満が母親の完全性を疑いだす。つまり、自分に不快感を味わせる母親は、何処か欠陥があるんじゃないか。あの至福の時間(快・不快分化前)完全なる母親は、自分と一体だったじゃないか。
そしてある日のこと、母親は自分を完全に満足させることが出来ない、欠如した存在だと確信する。それでも子どもにとって、母親との関係は世界の全てである。母親の欠如性は、(自分)の世界の欠如を意味するのだ。
そこで子どもはその母親の欠如を、自らの存在をもって埋めようとする。しかしこの試みは、成功するはずもない。自分の存在や欲望は、母の存在と欲望とは別物なのだから。
母子一体の至福状態ではもはや無く、何か奪い取られたような空虚な欠如感を持つ自分と、自分では埋めることが出来ない不完全性を持った母親。
人間は根源的に欠けたるものなのだ。人はその失われた部分を抱き、それを埋めるべく至ることのない対象a探しの旅に出る。
一体だと思っていた母親は、別の欲望を持つ存在と化し、残滓としての自己像は、鏡に映った身体を見て、初めてイメージ化することが出来る。子どもはこの外部の鏡像を取り入れ、混乱する自己像を統一し、そこに主体を確立しようと熱望するのだ。しかし皮肉なことに、主体がこのような外部である鏡像に自己を委ねたことで、本体の主人性を失うことになってしまう。
人は自らの中心を、自己の内部には見出せない存在となってしまったのである。

外部の像に自己を委ねるという過程は、他者との関係、父との関係に重要な意味を持たせることになる。他者への羨望、そこにみる自己の理想像、他者による自己評価の執着、母親所有戦でのエディプス・コンプレックス等、自己追求の旅は、他者との必然的戦いへと帰結しているのだ。
このことを別の面からみてみると、人はなにか外部の他のものでしか表現出来ないということになる。言語も然り、語れば語るほど、それ自体からは離れてゆき、間接的な代理表象の世界で、到達するはずもない欲望を発し続けるのである。
「痛い」という実像は、他者と交換可能な文法を持つ日本語で「痛い」と表現されて、始めて世界に意味を持たせることが可能になる。このことは、言語化される前の「痛い」という体験と、象徴世界である言語化の「痛い」という概念とは、違う次元にあることを示している。
非言語的主体と言語的主体の分離は、なにか絶望的な構造を見せて僕らに迫ってくる。
欠如した存在である人間は、外部の像・道具(言語他)に身を重ねることによって、始めて点線の自分をみることが出来る。しかもそのことによって、永遠に自分の主体を得ることが出来ない宿命にあるのだ。
私は、私自身にはなれないのである。
では語らずにおけば、その矛盾に落ち入らず、純粋な自分に接近しているのであろうか。「分かるよ。」「だよねー。」と頷き合ったり、「語ること自体がダメなんだ。」と眼鏡を鼻の上に引き上げたり、「パワーだよ。」「人知を越えたなにか絶対なるものが。」など言って、語ることを拒否したところで、欠如している自分が埋まるわけもなく、まして本質的に美しかったり、重要であったりはしない。それは「A=A]と言わない限り、「A=A]は立ち表れてこないのと同様に、そこには欠如した自分も、他者も世界も無いことと同じなんです。
確かに何かを奪い取られている人間は、欠如を埋めようと飢えています。
しかし、それは空虚の穴が在ってこそ、ドーナツであるのと同じく、語ることによって何かを失うということは、語ることによってしか、失うことを得られないということだ。
語り始めない限り表れてこない、内部を奪われてしまった自分。
無駄でも、かっこ悪くても、「俺は・・・私は・・・」と呟き続けるしかない。

現代思想の冒険者たち24クーンパラダイム/講談社

常識なんて、時代や場所によって違っているし、移りゆくものなんだと誰でも考えている。一応それを押さえておきながら、回りとの摩擦を少なくする為に、その常識を小出ししながら生活している。それが上手な人や不器用な人がいて、色んな人間模様があるんだと思う。
今書いてきた常識すら、時代を遡ればとんでもない考えだったし、人々が受け入れ拒否をしていた社会も珍しくなかった。だからこの考え自身も十分怪しいのだが、取りあえずこの考えを自明にしいる現在を導いてきたのが、営々と築いてきた知の集積だと僕らは考えている。その知の領域で最も信頼に価し、強固な構築を目指してきたのが、科学や数学だと誰しも思っている。1+1が2だと言語は違えど、基本公理を理解すれば万国共通に認識出来るから。
クーンは、その科学や数学すら変化するんだと主張し、大論争を生んだ。いや「変化する」という生易しい変革ではない。それはまさしく革命の名に匹敵する、全く別物になるのだと説く。
科学は、検証や反証を繰り返しながら、客観的知識を確定し、それらを連続的に累積し、進歩してゆくものだと考えられてきた。しかしクーンは、科学はパラダイム転換が起きることによって、断続的に変遷するのだと新しい科学観を提出した。この「パラダイム」という言葉は、近年様々なところで使われるような「物の見方」や「考え方の枠組み」の意味である。
つまり、人の考えや知識なんて、万世一系的なものじゃないんだ。ある時、全く違う考えが生まれてきて、ガラリと考え方が変わってしまうし、前に使っていた考え方や用語も、後の考え方には全く通用しない構造を持つ、とクーンは考えたんです。
僕が思うに、クーンは理念的な科学像よりも、現実的な科学像を強く信頼していたように思います。あるパラダイム(物の見方)がベースになっている科学界で、そのパラダイムのルールに乗っ取った科学研究が行なわれます。(通常科学)その通常科学の期間中は、そのパラダイム内において知識が集積化してゆきます。しかし科学は、そのパラダイムルールでは解けない「変則事例」を不可避的に抱え込んでしまいます。必死になって通常科学は、自分のパラダイムでこの問題を解こうと研究を重ねます。が、解決不能な「変則事例」が蓄積され続け、そのパラダイムに対する信頼が揺らいでいきます。一方、「変則事例」を取り込んだ新しいパラダイム(物の味方)が複数生まれ、パラダイム戦国時代へと突入し、新しいパラダイムの一つが勝利を収めます。その新パラダイムをベースとした科学が、新「通常科学」となって、研究が開始されるというわけです。
しかもその前後では、相互パラダイムで使用されている概念は、全く違うベースに基づいているから、「通約不可能」であると言います。
素直に考えてみると、全く理にかなっているように思われます。
僕らは、今でも次々と全く新しい思考様式に触れ、揺さぶりをかけられ続けているんです。そう考えると、これかな、あれかなと、自分の感性を探って楽しむこともできそうで、ワクワクします。そんな混然とした考えの坩堝にある自分が現実だとすると、新[自分]の誕生を待ち望む一方、科学もクーンの言う程断層的でなく、常に戦国時代が常態かなとつぶやいてしまいます。

店番しながら若い人達の動向をみていると、「通約不可能」なパラダイム違いを痛感してしまうのは、単なるおじさんの旧パラダイムなのかな。
ねぇクーンさん。

マルセ太郎『生きる』を観て

一人芝居、しかも映画を一本演じるという芸を堪能した。
導入の部分で自分のガン経験を語り、身近なことから死のイメージを観賞者に準備させ、演目に流れ込ませるテクニックはさすがだと感服した。ただ、興に乗って戦争話に進んでしまったのは失敗だと思う。
芝居や芸は、身近な事象であっても具体化であってはならない。それは必ず抽象化されたあるパターンの表出でなければならないからだ。
観る者は、その中で“自分の”パターンを読み取り、パターンを笑ったり泣いたりすることによって、“自分”を泣き笑うのだ。
舞台が一段高くしつらえてあるのは、自分の問題をそこに上げ祭り、観賞し心揺らす装置に他ならない。
独断で言えば優れた演者とは、限りなく演者自身を滅し、匿名化することによって、観賞者個々人化を体現できる者だと思う。さらに一歩進めて言うと、その個々人各々が、日頃気付かなかった無意識層の“自分を”立ち表れさせる助力となることが、最も秀でた芸人の所業の様な気がします。
あまりにもお客さまは神様思想のような気もするが、古来より祭りや芸が、穢れと貴きの両義性をもっているのは、芸や祭りが、現世の外部に位置していて、人々がその往還を欲すからだ。
僕らが芸人の前に身を置くのは、反戦や役者のアジテーションを聞く為ではない。役者の発する一言一挙手に、己れの怒りや悲哀を観て、それを笑うためなのだ。
“自分を”心の底から笑い、涙する。
それは優れた芸人による、希少な事件である。
実は最近徳さんは、全日本女子プロレスを見に行って、その事件に遭遇しました。