清岡卓行詩集より

耳を通じて

心がうらぶれたときは音楽を聞くな。
空気と水と石ころぐらいしかない所へ
そっと沈黙を食べに行け!遠くから
生きるための言葉が谺してくるから。


うたた寝

夕ぐれに眼ざめてはならない。すべてが
遠く空しく溶けあう優しい暗さの中に
夢のつづきのそこはかとない悲しみの
捉えようもない後姿を追ってはならない。


瞼の裏で

深夜のくたくたの睡気の中に一瞬
冴えきった闘牛の情景が現れ
昼間の覚めきった散髪の中を数秒
死ぬほど眠たい蝸牛が横ぎる。

墜落遺体—御巣鷹山の日航機123便−/飯塚訓 講談社

こんなにも恐ろしく、美しい本を近年読んだことがありません。
一瞬のうちにヘナヘナと僕の内部が溶けだして、茫然としてしまいました。
この本は買ってでも、借りてでもいい、どんな事をしてでも読んで下さい。お願いします。

赤目四十八瀧心中未遂/車谷長吉 文藝春秋

「併し」(しかし)の行き着く果ては。

世を捨てて逃げる様に流れ着いた先で、病気の獣肉を串刺しながら生きる男と、蓮の花が人目を引き付ける様に、路地に息づく男達の憤怒と失意を吸い寄せ、花咲く泥地の粥すすって生きる女の心中話である。
かつては言葉でものを考え、言葉で世を恨んだ男は,「もうどでもいいんです。」と言葉を吐き続けるが、そんな言葉は「ジゴク」を行き来する人達に言葉にもなってはしないと、せせら笑われる。

ふいに目の前に素足の女が立ち、下穿きを足から抜きとり、読んでいた新聞紙の上に投げ捨てた。・・・獣の夜が終わり女が去った後、男は静かに白い下穿きを新聞紙に包み、臓物の臭気が篭もる冷蔵庫の一番下に仕舞い込む。
二葉亭四迷以来、日本文学の主流に居を構えていた知識人の苦悩は、いとも簡単に、野菜フリーザに投げ込まれたのだ。いとおしげに女の温もり残る下穿き抱いて。
「人が人であることは、辛いことである。」と言葉に変える作者は、一つ言葉を置いては「併し」を書き連ね、また一つ言葉をシミの様に刻みつける。
それは、言葉に何とか魂を吹き込ませようとするかの様だが、口当てるゴム穴より大きな破れある風船は、ふくらむ運命を持ってはいない。
ただ人は、唾に濡れたゴムを不快な心持ちでこね回し、時折り悲しげにキュッと鳴く軟体を気味悪げに見下ろしては、目を背ける事も出来やしない。

著者の作品は、以前「鹽壷の匙」を読んだことがある。
ネチネチと己れが事を、繰り返し繰り返し書き連ね、自分という事に成仏出来ない恨みを書いている作家がまだいることに、感動と共感を抱いた覚えがある。
「車谷長吉」の名前は、雑誌で時々見かけてはいたが、あえて読もうとはせず、せめてこのまま亡霊の様に、日本文学に張り付いていてほしいと願っていた。
今回読んでみて素直な感想で言えば、最後は失敗だと思う。しかし、その失敗は作者自身の未消化というよりも、現代の迷いである。
これには僕自身、批判半分と安堵半分なのが正直なところである。

「併し」(しかし)の意は、人が並び連なる意であるから。

インターネットは、グローバル・ブレイン/立花隆 講談社

世の中では数年前から、「インターネットはすごい。これからはインターネットだ。」と誰でもが言いながら、それでいてどこがどう凄いのかを聞くと、きまって膨大な情報があるんだ。と口を揃えて言う。ふ〜んと聞いていたが本心では、それがどうした、今ある情報だって満足に使いこなせやしないし、むしろ翻弄されてさえいるのに、これ以上何の情報がいるというのだと思っていました。それに、そんなに凄いインターネットが世界を席巻しても、数年前と比べて僕らの生活が目に見えて変化してきたようにはおもえませんでした。
アダルトが見えるよって言ったって、毎日見てどうするの。将来の商売のチャンスがここにあるよと言われても、今日の特安タマゴは朝刊のチラシを見て決めます。
確かにそうです。全くそうです。しかし、インターネットが存在していることはやっぱりすごいと、使ってみて素直にそう思います。

インターネットの意味していることは、知識、情報が全く新しい形で集中していることです。そして、特に注目してほしいのは「新しい形」での集中なんです。
この「新しい形」は虚界です。
なにも嘘というわけではなく、虚数が存在するがごとく、実数とは別の物でありながら、実数あっての虚数、虚数あっての実数という、共存関係としての虚界です。
コンピューターの処理能力速度が桁違いになったことによって、僕らが持っている実感とは大きくかけ離れた虚空間を生み出したのである(実は、僕らがそう思いたいだけなんですが…)。それぐらいものすごい情報量と細分化、最速の世界が広がっているのが、インターネットなんです。
その世界は今ようやくその緒についたばかりで、まだまだ不備や問題が山積しています。今後それらの問題は、徐々に解消されて行くでしょうが、僕の期待は今迄考えてもいなかった解決方法が、虚界の法則によって提示されるのではないかということです。その可能性は十分にあると思います。
人間が考えた道具が生み出すものだから、その表出も結局は人間の思考範囲にあるという考えもあるでしょう。そうかも知れません。しかしどこか少し驕ってませんか?
手のとどかない果実を取るために、傍に落ちていた棒を拾ってたたき落とした先人がいました。その結果に初めは目を見張り、驚き「ハッは〜ん!」と理解します。その棒は次には、隣人の頭蓋をたたき割ったのです。
隣人を殺めるために、その棒を拾ったわけではありません。その棒を使って初めて、隣人への新しいアプローチを考え付いたのです。
人間って十分愚かだし、その反面結構可能性もあるんだと思います。
この虚界は、どんな棒なのか僕は興味津々です。

さて話は一転しますが、初めてパソコンをいじり始めて2・3ヵ月のずぶの素人からの文句を書いて、現在の問題の一端を告発したいと思います。
これだけ持ち上げといて何ですが、はっきり言って、コンピューターは面倒クサイ!!まだまだあるぞ〜。さあ〜言ったれ言ったれ!!
まだ細部が専門的で難しく、すぐ凍ってしまう。どこを叩いてもどうもならん!どうすりゃいいの?
徳サンはそんな時「コンピューター君、君には少し難しかったかな。もう一度勉強してきなさい!」といって突然電源を切ります。その後彼は、不貞腐れもせずビンビンと音をたてて再起動してくるんです。その健気さが愛おしく感じて仕方ありません。
いろんな事が出来るけど、ほとんどは使いません。字体もいっぱいあるし、難しい計算も出来るみたいだけど、計算式自体が理解できません。これ誰が使うの?
インターネットを使うけど、大部分がしょうもない情報です。必要な情報に行き着くまでに、検索検索を繰り返し絞り込んで行くんだけど、知ってる全ての項目を入れてもまだ膨大な項目が表示されて、もっと単語を書いて絞り込めといいます。「知ってたら、調べないよ〜。」
メールは確かに便利だけど、1日数十通くるとずっと返信を書いてばっかしでけっこう時間を取られます。次の日には、その返信が送ってきて、ナニか悪いネズミ講にかかったみたいだな〜。
うまくネットサーフィン出来ず、なかなかインターネットの新しくすごい世界に行けないのです。だって、すごい世界は英語で作られているんだもの。検索単語を日本語で入力しても、最先端の英文で書かれた情報には、ひとっ飛では行けません。もちろん技術を磨いたり、英語力を付ければ可能なんでしょうけど、そこまで悠長にやっている間に、飽きてしまうか、そこそこで満足してしまうのがオチです。う〜む。

しかしこの本を読んで、その先にこんな世界が広がっていることを知り、知的好奇心をかきたてて、再度クリックを繰り返してください。
やっぱり、インターネットは凄いし抜群に面白いから。

ブエノスアイレス午前零時/藤沢周
ゲルマニウムの夜/花村萬月

今期の芥川作品であるが、今回ほど不満が残る受賞作は、ちょっと思いつかない。いや不満が残れば、まだいいのかも知れない。そこには反発感を抱かせる核があるから。
はっきり言って、なぜ2作が受賞したのが分かりません。
良い所はありました。「ブエノス—」は、よくまとまっています。雪深い温泉場、都会から逃避してきた青年、老人達が集うタンゴ集会。盲目でブエノスアイレスへ妄想の旅に出る老女。
もうこれだけで充分じゃないですか、物語は。

「ゲルマニウム—」(どうして両方ともカタカナ入りなのかな偶然?)は、同じ作品(同一という意味ではありませんが)を読みました。同著者による「聖殺人者イグナシオ」です。
話としては、「イグナシオ」の方が、おもしろかったです。飢えた暴力と、乾いた心からの慟哭が感じられるから。しかし、この時代の閉塞感から脱出するのに、ただ単純にその気分を打ち壊せばいいってもんじゃない。また壊せるものでもない。破壊せずに破壊するしかないのだ。ようやくそれに気付いたのに、それに倦んで過剰にイメージを煽り立てて瞬間的に満足しているに過ぎない。暴力性を、暴力を喚起させる言葉でそのまま書き記すなんて、後退の何ものでもない。もう諦めたのか?日本文学は!
最後の豚の胎児のシーンがあるではないか。唯一言葉がズルリと体液を流し出し、チリチリと痛みが飛び立つシーンが。ほんの一瞬だけど、それしか今の僕らは掴んでいないんだ。

芥川賞なんて、賞なんだから高いも低いも、深いも浅いもありません。
胸にぶら下がるリボンのラメの輝きだけが、賞の看板みたいなもんで。剥いでみれば、指先にしつこくまとわりつく紙片というだけです。
その紙片を覗き込んで、己れの顔を写し目を寄せると、小さすぎて顔が入りきれない。顔を引いて見ると自分の顔は無く、ただ無邪気に天井の明かりを反射して、キラキラと光っているだけです。決して自分の顔がピタリと見れるわけではないのに、多くの人が文学・文学と目を潤ませます。
馬鹿らしいと言えば馬鹿らしいのだけど、僕もその馬鹿の一人です。
腐っても芥川賞。反発・批判心が湧き起こらない受賞作じゃ、次期まで淋しいよ。

善人はなかなかいない/フラナリー・オコナー 筑摩書房

僕らは色んなメディアを通して、アメリカを見聞きしています。
人種問題、エイズ、暴力、科学力、大国意識、宗教、貧富、性などの顔を持つアメリカ。しかしどんなに冷静に考えても、ある種の違和感を感じてしまいます。どこか根本的に違っている異国のイメージで、それに対して憧れを感じたり、対岸の火のように感じたりもします。
徳さんという日本人を知ることによって、日本国家をイメージされても当然ながら合致もせず、日本国家の有り様から徳さんを推定されても、はた迷惑なだけです。
はっきりしていることは、「日本」国家の構成員である「日本人」という生の具体像は、ただの1人としていないのであり、日本人であるという幻想を大事に抱えている人が、あまた生存しているにすぎないのです。
ならば僕らが、アメリカという幻想から垣間見る暴力や性の問題は、生息する僕らの地平と地続きではなく、どこか大きな断層のあちら側にうごめいているのでしょうか。
それもまた違うのは明らかです。
一発の銃弾に痛みと無念を抱いたまま、冷たいアスファルトに横たわっていくのは、名前ある人間だし、大人の振り降ろす拳に恐怖と涙で全身を震わせている子どもも、僕らと同じ空間に現存しているのです。
この抽象的な物事と、具象的な物事はどんな関係になっているのでしょう。難しいことは分かりませんが、どうも僕らの認識の仕方を考えてみると、具体的なことの中から抽象的な問題を引き出して、我が身の具体的な問題として考えているように思います。他人の死を通して、まだ訪れてはいない自分の死を考えるように。
まあ、具体的なものとは何かとか、抽象化することの問題とかが、哲学用語を駆使して色々言われていますが、とりあえずそれは置いておきます。
ならば僕らが、アメリカの問題として抽象化した問題を、具体的にどう考えたら良いのだろう。
そこで気が付いたのだけど、僕がアメリカに対してピントこないのは、抽象化した問題を、自分の具体的問題化に失敗しているからじゃないのだろうか。考える以前にあったんだと思います。そう考えると、それが違和感の源だったんです。

しかし、この作品を読んで一気に体感してしまいました。自分の問題としてユルリとそれが立ち上がってきたのです。
それは、ベットリと濃い汗で張り付いたような恐怖でした。