疑惑JAL123便墜落事故 /角田四郎 早稲田出版
書籍名日航123便事故と医師会の活動 /群馬県医師会

先月の「墜落遺体」を読んだ後に、そのショックを引きずったまま関連本に手を伸ばし、メールでは「疑惑」の本を紹介されました。
この事件は僕のなかでは完全に過去の出来事になってました。坂本九さんが同乗していて亡くなったこと、川上慶子さんという女の子が奇跡的に生存していたということ、そしてその事故の原因は、過去にしりもち着地事故をした後のボーイング社の修理ミスで、飛行中に圧力隔壁が突然崩壊し30分余りの迷走の後、御巣鷹山に墜落したということ、これが僕の記憶に残るこの事件の全部です。
多分ほとんどの人が同じような印象を残して、完全に過去の出来事になっているのではないでしょうか。
真相が何処にあるのか分かりません。しかし、どうやらこれが全部ではなさそうです。あまりにも多くの謎がこの事件にはあって、今でも多くの人々がその苦悩の中で身を捩り、近親の死の真実を知りたがっていることを、僕は初めて知りました。人間の死やそれにつながる事実すら、別の人間の思惑で消されてしまうことに、強い怒りと底の無い寒さを感じています。

〔1985年8月12日〕13年以上前の痛ましい事件です。

oなぜボイスレコーダーが公開されないのか?
oなぜボイスレコーダーの筆記録が公開の度に違うのか?
o報告された会話の話自体が、増えたり減ったりするのは何故か?
o最高級緊急国際救難信号を発信しているのに、すぐ近くに基地がある自衛隊機・米軍機が発進せず、なぜ墜落するやいなやスクランブル発進するのか?
o30分以上も、ただ指をくわえて見ていたのはなぜだ?
o墜落現場に数十分後には到着した米軍ヘリを、基地に返したのはなぜ?しかも、人命救助の為の降下準備完了後にだ。
o後に生存者達は、墜落後多くの人達の泣き声を聞き、近くの人と会話を交わしていて「その時すぐだったら助かっていたのに」と発言しています。人命救助を差し置いて、優先された事実とは?
o米軍ヘリがその時自衛隊に伝えた、墜落現場特定情報はなぜ黙殺されたのか?
oその後何度も出動する墜落場所特定ヘリや飛行機の情報が、その度に違うのはなぜか?
o位置を確定するために飛んだヘリ達が、あやふやな位置確認機器を積んで飛行したというのか。西へ東へ5キロ、10キロと現場と違う位置を次々と報告するのだ。
o隔壁破壊説があり得ないという専門・関係者(乗員組合など)の批判を無視し、強行するのはなぜか?
o日航機の迷走が、全てレーダーで追認できたのに、発表する度に航跡が変化するのはなぜ?
o墜落地点が判明していないのに、日航は救援隊をまっすぐ長野県に送ったのは何故か?現場が群馬県だと確認されても、長野へ長野へと遺族を送り込むのはどうしてか?
o現場から一番人里に近く、交通の便の良い長野県側を、一切使わない理由は?
o日航が発表した「落合証言」を、当の本人はしゃべっていないと否定しています。誰が何の為に「落合証言」を捏造したのか?この証言は、日航側の論拠の一つとなってゆきます。
o事故が発生したと思われる海域から、一番早く残骸片を回収した試運航中の新造艦「まつゆき」の怪。
o現地の消防団員は早くから墜落地点を確信していて、入山準備をしていたのを強硬に押し止めさせていたのはなぜか?
o消防団員がそれを振り切って入山し始めると、慌てて自衛隊・県警が現地入り始めるのはどうしてか?
o70名以上もの空挺部隊が早くから入っているのに、生存者がいた谷底には一人も行かず、結局、現地消防団員達が見つけたのはなぜだ?
oしかも空挺隊が人命救助も行なわず、慌ててヘリで回収していた金属片は何か?
o山中の救援活動に、参加していない神奈川県警の制服を着て作業する自衛隊員とは?何の為に。何をしていたのか?
o墜落現場で早い時間に撮影されたビデオに写っているオレンジ色の金属片とは何か?日航機の部品ではないこの物体は?
o墜落現場は高天原山で(長野県側は神立山)、御巣鷹山ではない・・・

僕らは何を知っていて、何を知らされていないのか?

書籍名やさしい仏像の見方 /西村公朝 新潮社

僕の大好きなシリーズの1つである、「とんぼの本シリーズ」です。
なんといっても、このシリーズ本の写真がきれいです。
厳選に厳選を重ねたことが、推し量れるそのレベルの高さと構成は、他に類をみません。特に僕が気に入っているのが、写真や図絵と文章のページ割りふりなんです。大概ビジュアルが多用されると、左ページに写真で右ページが文か、上方写真に下方文章の2パターンがほとんどです。
これには常日頃不満に思っていたのです。これだけ多種の出版社と有能な文人が集まって活動している出版物が、ワンパターンに落ち入ってしまっているのでは、価値の多様化だの想像力の欠如だなんて、小賢しく文面を踊っている言葉自体怪しいってもんだぜ。(おっと、いけない。文句を考えはじめると、つい調子に乗って品位を忘れてしまう。徳さんは、良い所を探して褒める上品さを売りにしようと思っていたんだっけ。何気ない優しい言葉使いと、分かり易い文章を書くことを心掛けておけば、自然と読んだ人に好感を与えるんじゃないかと戦略をたてたじゃないか。気を付けよう、気をつけよう・・・)
このとんぼシリーズはどちらかと言うと、ビジュアル側に主役があって、文章は写真や図絵の邪魔にならない様に、ツマの如く添えてあります。しかもツマはツマでも、鮮度を保った細身でありながら歯ごたえのある好文章です。

美しい仏像の曲線が、ささくれだった心を静めてくれます。
どうもこの頃世界の雰囲気が、直線になってきたようで、心の座り心地が良くありません。確かに、速くて無駄が無いようだけど、なにか何処かに置き忘れてきているような気がします。
それが美しいものなのか、大事なものなのか僕は知りません。本当のところは、上手に生きられない理由を、何かを忘れたのだとか、もっと大切なものとか言って、自己弁護しているだけなのかもしれません。
それを声高に言い連ね、崇める程能天気にはならないぞと、傲慢に開き直っていますが、仏像の半眼に晒されると、自然に頭が下がってしまいます。

「満員電車の中で、自分の赤ん坊をだっこしている人がいたとします。もうほおずりしたいほどかわいいのですが、他に乗客がいるので、素知らぬ顔をして抱いています。ところが、もし電車が急停車しても、絶対その子を落とさないという抱き方をしているのです。例えば、足の踏んばり、肘のかまえ、指先の形、すべてにその子をかわいいという一心の姿があります。これが慈悲の形になるのです。」

もしこのような考え方を置き忘れてきてしまっているなら、やっぱり取りに戻らなくちゃ。

書籍名言葉と私私論 /店主より

感想文の巻頭にいつも紹介していた詩の一篇は、残念ながら割愛させていただきます。
実はこの感想文は、夢屋に集うお客さん向けに書いてきたものです。長崎での小さな店の愚にもつかない戯言なら、著作権も何もあったもんじゃないだろうと、無責任に始めた詩の紹介ですが、無制限なインターネットなら事情は少し変わってきます。
「気にしなくてもいいんじゃない?」という意見もありますが、気を付けなくてはならないのは、実害と感じる人の立場だと考えるからです。
ただ最後に、詩を紹介し始めた僕の意図を書いておきたいと思います。
世界は言葉です。これには誇張も比喩もありません。まさしくそのままそうだと思います。しかし言葉は、同じ言葉でも同じ意味や物を意味しているのではないんです。言葉は、言葉を発したり聞いたり、考えたりする「その人」だけの「世界」なんだと思います。
僕ってなんなんだろうと考えたり、自分自身を知るという事は、自分の言葉と出会い、自分の言葉を見つけることなんです。本を読んだり、音楽を聴いたり、映画を観たりする中で、自分が気に入った言葉や音、シーンなどは大切にしてほしいと思っています。それが「あなた」なのだから。
詩を読んで、少しでも気に入った言葉に出会ってほしい、そしてそのきっかけから、自分の言葉探しに出掛けていってほしいなと、勝手に思っていたんです。
あくまでも同行者には成れませんが、すれ違うことはきっとある旅だと信じているんです。