DNA人類進化学/宝来聰 岩波書店

「岩波科学ライブラリーシリーズ」の最新刊で、ミトコンドリアDNAの解読による、人の進化、日本人の起源を探る刺激的な本です。
独断的にぼく自身が、初めて知ったことを列記し、感想文にしたいと思います。(手抜きだぞ〜)
(1)ポリメラーゼ連鎖反応(PCR)法という新技術の原理が詳しく書かれてあって、フムフムと読んだ。
(2)ミトコンドリアの母系遺伝様式は、細胞分裂の初期段階で父親由来のミトコンドリアを除去する機構によるためである。
(3)ミトコンドリアDNA解析からは、「多地域並行進化説」より「アフリカ単一起源説」の方を指示するデーターが見られる。
(4)日本人起源説をミトコンドリアDNAでみると

アフリカ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ヨーロッパ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
アメリカ先住民
・・・・・・・・・・・・・・・・
アイヌ
・・・・・・・・
中国人
・・・・・・
琉球人
・・・・・
韓国人
・・・・
本土日本人
・・・

僕らは、近くの沖縄の人達やアイヌの人達より、中国・韓国の人達との方が血が濃いのである。

われらは遠くから来た
そして
遠くまで行くのだ
(白土三平「忍者武芸帳・・・影丸伝」)

ゆきゆきて神軍/原一男・監督

以前から鑑たいと思っていた映画でした。
1969年の一般参賀の時、天皇にパチンコ玉4個を発射。天皇ポルノビラを撒いたり、田中角栄殺人予備罪で逮捕されたりの奥崎謙三。その彼における戦争究明のドキュメンタリーです。
初めに言っておきます。僕は彼の思考、行動を全面的に支持するものではありません。しかし…。
この映画に現われているのは、奥崎謙三という個人の常軌を逸した行動によって戦後民主主義、平和主義、人道主義の「いかがわしさ」が、ものの見事に暴かれていく過程です。
暴力絶対反対のテーゼの前に、力無き市民は突き上げる怒りに腕を振るわせて、唇を噛み締め、切り口より流れ出る血を、涙で湿ったくしゃくしゃのハンカチで拭うことしか出来ません。
奥崎は、そんなところで踏み留まる術を知りません。
怒りのまま土足で人家に駆け上がり、シラをきるかつての上官に馬乗りになっては、殴る蹴るを繰り返します。
「貴様、本当のことを喋れ!それが草葉の陰で恨みを抱いたまま、眠れぬ兵士達への唯一の鎮魂だ。戦争や地獄を知らぬ日本人に、貴様が見てきた地獄を喋れ!」
上官は殴られながら返す言葉は、ただ
「暴力はいけない。暴力はいけない。」
これが僕らのいる民主主義であり、平和主義なのです。

凍りついた瞳/ささやななえ椎名篤子 集英社

「児童虐待」この言葉が意味している事実を想像するだけで、心の底から怒りが込み上げてきます。
はっきり言って、冷静でいられる自信がありません。
児童虐待の問題の一つは、世代継承です。親が加害者であると同時に、被害者であるということ。そして虐待された子供が、将来の加害者になりえる可能性が高いということです。これは、単純に子供を虐待する親から逃がすことだけでは、何ら問題解決にならないことを意味しています。
親子が一緒に、安全で生活できる家庭を築くことを目標とする、問題解決への取り組み以外、根本的な解決にはなりえません。それには、公私に渡る多くの人間と多くの時間、そして多くの努力が不可欠な大変な取り組みです。
以上、頭では理解しています。しかし僕は、様々な肉体的・精神的虐待の跡を残す子供の存在を知るとき、それら全てを無化してしまう感情に囚われます。
ただ一点、頭の隅で「俺は大丈夫か?」という小さな問いが囁いていて、それに対して小さな声で「多分、大丈夫だ。」としか言えない我が身。
このわずかな一点を消さないが為にも、このテーマを考え続けていこうと思います。
この漫画は、単に虐待の告発だけに留まってなく、この問題の根底に届いている優れた書物です。
強く推薦します。

一卵性母娘な関係/信田さよ子 主婦の友社

数年前から僕は、家内も含め回りの女性達に母娘との関係について色々質問や意見を言ってました。社会変化による新しい現象だろうと思うし、実際に彼女たちの意見を求めるのが、最もレアだと考えて聞くのだが、きまって猛烈な非難と反発を生むばかりでした。
このごろようやく、このテーマの本が出はじめました。数冊読んでみましたが、基本的にはその病理性を述べた本ばかりです。もちろん、それらの精神構図に絡め取られた人々もいるでしょうが、巷に見るこの現象を網羅するには、あまりにも偏狭な理論で、僕の実感とは相容れませんでした。
本書は、この現象を「彼女たちが幸せならいいんじゃないの。」と、肯定的にとらえている点が異色です。
肯定的な視点で、社会構造や家族理念の変化を語り、より一般性を獲得しています。著者は以前より、アダルトチルドレン(AC)について早くから啓蒙してきた一人ですが、一卵性母娘がACの対極にあるという理論には、深く考えさせられました。
私は表層に現われてくる現象は、様々な要因の結果であり、その結果によってさらに要因が影響を受けるものだと考えますから、現象自体をまずは受けとめる彼女の姿勢に異存はありません。しかし本書は、表層の肯定を強調するあまりに、要因については楽観的すぎる様に思います。

人間の意識構造を説明し始めたのはフロイトですが、彼の幼児期における意識形成の主眼は〝エディプス〝という概念です。これは親殺し、特に父親殺しという概念であり、これからペニスの去勢強迫、ペニス欠如等が考え出されてゆきます。単純に男性中心主義などと言う気はありませんが、どうも母親は、意識形成の上では、2番手の役割となってしまっています。しかしどう考えても、実際には母親が中心ですよね。(社会形態の問題があるかも知れませんが)当然ながら、意識形成の中心も母性だと思うのですが・・・
一卵性母娘も根本のところは、人間の母性中心による意識形成という理念をきちんと提出しないとダメだという気がします。
さて、また一から出直しだ。

シリーズ性を問う(1)原理論 /大庭健他 専修大学出版局
シリーズ性を問う(2)性差 /大庭健他 専修大学出版局

自分の性とは何か?そもそも性とは何か?
逆に問うてみよう。“性とは”と問う先駆的な意味があるのか?

性には、一般的に3つの面があると考えられています。

(1)遺伝子−解剖学レベル。生殖機能上の差異などを基準とした生物に共通な雌雄性(sex)
(2)性別役割−男性性/女性性など社会的・文化的な性(gender)
(3)異性愛・男性愛など性愛・性的指向性(sexuality)
『ジェンダーの社会学』江原由美子他/新曜社
これらの「性」を、それぞれ混同することなく、ちゃんと考えてゆかなければならないと考えます。
何のsexなのか。どんなgennderで、どの様なsexualityを持っているのか。それが自分の性を考える第一歩なのです。

そうは言っても、3つとも分からないことだらけなんです。
(1)を考えてみても、なぜ生物は性を持ったのか?なぜ有性生殖が出現したのか?(自然の多様性に対応する為という考えは、実は論証されていないのです)なぜ自然淘汰があるのなら、雌雄の形態差が生まれるのか?etc...
身体の性化は、ホルモン等化学物質の分泌量とタイミングで決まります。しかも多数の因子が、どの時期にどれくらいの量が分泌されたかという、ほとんど2分化などというイメージからは、ほど遠い条件で決定されているのです。ジェンダーやセクシュアリティーを考えても同様に、「?」「?」ばかりです。
近年の性をめぐる様々な動向を考えてみると、はっきりとしたことが1つあります。それは、今迄の「性」を語るとき、常に一緒に語られ続けてきた「性」「愛」と「生殖(家族)」の三位一体の幻想が、根本から崩壊してきたということです。
愛情なき性、性交なき生殖が完全に一般化してきた現在、ようやく「性」ということをいろんな方向から検討することが出来る時代になったのかもしれません。
自分の解放は、「性」自身の解放と決して無関係ではないのです。

性の歴史.Ⅰ.知への意志 /M.フーコー 新潮社
同性愛と生存の美学 /M.フーコー 哲学書房
性への自由性からの自由 /赤川学 青弓社
男性同性愛者のライフヒストリー /矢島正見編 学文社

現代思想・・・レズビアンゲイ・スタディーズ 青土社
imago・・・レズビアン 青土社
imago・・・ゲイ・リベレーション 青土社

同性愛の問題に取り組んで、数ヶ月たちました。
正直なところ、当初では考えてもみなかった場所に、辿り着いたような気もしています。1つは、この問題に無知であり、間違った認識に立っていたことへの大きな反省があります。たいへん勉強になりました。もう1点は、個人的なことですが、自分の考えが持っている将来のビジョンが、どうしてもネガティブになってしまっていて、行き詰まっていたことと関連します。「単独者は連帯できるのか?」とのフーコーの問いに、自分なりの解答を見出せないでいました。そんな僕に、同性愛の運動及び理論は、一筋の光となりました。
ようやくこの問題の端緒についたばかりで、意見するにはほど遠いのですが、とりあえず中間報告という形でまとめてみます。
初めの数枚は、3ヵ月ほど前に書いていたものです。自分の間違った出発点と混乱がよく分かるので、乱脈になりますがあえて載せました。
それでは、どうなりますことやら。

「性」の問題は、自分の重要テーマですが、その中でも同性愛の問題は2つの意味で注目しています。
第一に、僕個人の感性として“どうも分からん”ということです。
近年欧米などで非常に増え(?)、ある面では市民権を得たかのように思われる、ホモセクシュアルの情況があります。考えなくてはならないことは、この同性愛の問題が、現代の問題として意味を帯びてきたこと、そしてそれに多くの人たちが反応しているということだと思います。これは生物学的な問題なのかもしれないし、キリスト教的宗教性の問題なのかも知れません。また、もっと別な理由があるのかも知れません。それらを考え、自分の感性に照らし合わせてみても、鈍い為かピンとこないのです。このピンとこないのが、どうも気になって仕方がないんです。
もう一つは、店で売れている本のジャンルで、美少年による同性愛誌が近ごろ異常に売れている現状があります。しかも、女子中・高校層が急激にふえています。決して無視できないくらいに。思春期のころの性世界への接近において、彼女たちの内部で何が構築されているのか、キチンと考えなければいけないと思ったのです。
結論が、自分の中で出たわけではないので心許ないのですが、現在の僕の認識を書いてみたいと思います。
始めに、この問題に入る前にメモ書きしたものを書き留めておきます。

◆生物学的な性の多様性
◆生殖の意味からの性の離脱
刺激・快楽のみの性、美としての性、身体・ファッションとしての性
◆社会的性(政治・制度)からの性の分化[ジェンダー]
生殖器中心主義
◆ナルシスト的自己愛
↓精神だけではなく身体愛としての自己希求
芸術、文化分野に同性愛者多し?
◆バイセクショアルとしての性の復権
◆同性であるが故に交流可能である生理的親和
レズビアンー生理における身体観
◆エディプス・コンプレックスにおける意味の変質
同性愛雑誌・母娘一体化・・・・
◆時代・社会による性の実態化→普遍的性の不在
◆アイデンティティーとしての性の細分化→孤立化の深化

自己空虚の思想の果ては?
◆ホモセクショアル
→ゲイ&レズビアン→クイア
◆多様な性の生態
性行為の範疇に同性行為も含まれている。
種が社会性を獲得したとき、発情期の喪失が起こった。
日常的な心身のコミュニケーションを必要とする
→ヒト、ボノボ
◆18世紀、社会構造の強化のため異性行為を奨励、権力化する
→ホモ・へテロの分離
◆育児・生活様式において、対家庭・男女差が少なくなる
→無意識層の均質化→性差の崩壊
→基本形である女性性が、男性性よりも比率高まる
→家族内での性の均質化
→育児・生活様式において、対家庭・男女差が少なくなる→…
◆女性が読む男性同性愛誌、男性が読むレズビアン誌
→自分の性が語られないことによって現実的な生々しさを感じず、性の世界をイメージできる。
->自己性の限界・具体化を避ける。
◆ゲイ〜性関係のコントロールの中心は「愛」ではなく「合意」である。
「性」「愛」「家族(生殖)」との分離がなされている。
「パートナー」関係の持続性の問題。
◆レズビアン〜性経験を経ないと、自己の性的指向の自覚化が十分になされないことが多い。
ゲイは、マスターベーションでのイメージ等によって自覚者が多い。
(上記のデーターは本当か?)
◆大多数とは、アイデンティティーを必要としない者達のことだ。

これら同性愛の問題への興味は、自分自身の性の問題を考えてゆく上で、必然的なことでした。
つまり、「僕の性とはなんだろう?」「この欲望ってなんだろう?」という疑問が、当然ながら他者との比較、そこで現れる違い(差異)が、自分の性の固定化を進めるのだろうと考えていました。
フーコーが「性の歴史」で書いているように、17世紀以前には、この世に同性愛者などいなかったのです。同時に、異性愛者も不在であったのです。あるのは、同性愛行為と異性愛行為があっただけです。これらは分化されていなくて、<あれ>のなかに全部含まれていたんです。つい、この前まで!
この事実は、僕に大いなるショックを与えました。僕の性なんか生れつきの本質ではなく、いわゆる社会的なものだったんだ。僕が漠然と抱いている性の欲望も、50年後には2つか3つに分化され、よりクリアなものになるかもしれない。それもまた、無数に分化される運命にある。「今の俺の性って何だ!」異国や違った時代に生まれたら、変わってしまうものなんだ。俺の性って。
僕にとっての意識形成論は、フロイトによるところが大きいです。だから同性愛の問題も、エディプス・コンプレックスと去勢・コンプレックスの関係理論で考えていました。それを踏まえた上で、病理という視座を否定しつつ、性のもつ多様性の一環として、自然な同性愛の根拠を探そうとしていたのです。頭では、自分の性は社会的産物だと知って驚き、心情的には、「私」という基底の大きな根拠に、性を考えたいと希望していました。
同性愛は、性的指向(志向ではない、意志ではどうすることも出来ない)とされ、マイノリティーとしての地位を固めてきた一方で、同じ同性愛のなかでも、SM、性転換希望者、異性服趣味等差異化が進んでいます。また、その中で差別も現れていると聞きました。
生殖という桎梏を越えて、性を提出し始めた彼(彼女)らは、人類の意識の将来を間違いなく具現しているのである。
彼、彼女らは何処へ行こうとしているのか?いや彼、彼女らと僕は!!
(以上97年8月記す)

現在一つはっきりしてきたのは、大きな物語は終わった、大きな物語は信用しないよということだと思います。ベルリンの壁が崩壊し、イデオロギーの幻想は潰えました。
今は決定的に、個人の世界になったんだと思います。個人を表現する為に、公約数的な概念を使用することは、二次的なものとなっています。日本人だとか資本主義だとか、個人を包括する物語(大きな物語)は、個人にとって本質的な意味はなくなりました。それが現在だと思います。
そしてその方向は、個人の規程の細分化へと進みます。「私」の趣味は、好みは、性の指向性は、身体は、とそうならざるを得ません。それは一見、固定化を指し示しているかのように見えます。しかし、確かに個人を規程するジャンルは明確化を増しますが、細分化している分だけ、その一つ一つの意味の重さは軽量化されているのです。
「私は」「私は」と答えれば答えるだけ、その根拠の無さ、空虚さを増すだけなのです。
そんな個人が、共に生きることは可能なのか?

考えうる共存は、個人がそれぞれの可変可能な指向性の基で、その時その時他者との<ゆるい連帯>を生んでゆくしかないと思います。
ある時は、育児に追われる主夫で、午後からは反戦集会へ、夜は仕事の関係から自民党議員の支援会などという風に、一つ一つは結びつかなかったり、矛盾していたりもします。しかしその選択は、個人を規程する何ものの矛盾も生みません。また他者と連帯する規制も、必然性も必要とはしないのです。

{ゆるく結合し、自由に解体してゆく。そしてその基盤は、可変的な細部ジャンルを持っている個人である。}

同じ人間だからとか、同じ男だから、同じ障害者だから、同じ宗教、同じ国家だからなんて言葉は信用しない。
何かの共通項の概念でくくる思想は、全て間違っています。
ある時は人間として考え、ある時は女として行動し、ある時は障害者として社会の差別を訴え、ある時は同じ宗教者と共に祈り、ある時は国境を越えて異国の風にふかれてみる。そうあるべきだ。
あなたと私は違うんだ。
全ての人間は、クイア(異体)である。
この異体という一点でのみ、連帯の可能性があると思います。
大事なことは、この違う者同志が違うことを前提として、共に生きてゆくことです。
ささやかでも、小さな幸せを夢みながら。

同じだから、共に生きるのではない。
違うからこそ、共に生きてゆきたい。