海の夏/伊藤秀男 ほるぷ出版

最高にうれしい気分です。これだから絵本探索は止められません。この感動は片山健以来じゃないかと思います。
すてきな絵本は、万語の説明をあざ笑う力があります。この本は子ども達にも大うけでした。
何回も開いては毎回笑い、取り合ってページをめくりました。もちろん、三つ巴です。
とにかく、すばらしい絵本です。

や・ちまた王たちの回廊/鬼海弘雄 みすず書房

正直のところ、この本を紹介することに躊躇しました。
この写真一枚一枚、写っている一人一人、彼ら彼女らの見開いている目の一つ一つ、刻まれているシワの一本一本が、僕の憧れです。何か自分の中の秘密にしておきたい聖域が、衆目に晒されている様な羞恥心を強く感じて、これだけは知られてはならない、人に聞かれても知らない写真集にしておこうと、一瞬思ってしまいました。
こんな写真、人々がいることに参ってしまいます。知らないであやふやにしておきたかった、後悔に似た感情もあります。でも、もう見てしまいました。手に取ってしまいました。
僕のささやかな夢は、「や・ちまた」王たちの回廊の住民になることです。

陪審評決/ジョン・グリシャム 新潮社

首を長くして新作を待ちわびる、数少ない作家の1人ジョン・グリシャム。毎回、過大な期待を裏切らない筆力には、恐れ入ります。
米国の法廷システムは、日本の法曹世界とは大きく違っています。どちらが良いのか僕には判じかねますが、日本の裁判所や、弁護士・裁判官には、率直なところこれといったイメージも湧いてこないほど、疎遠な世界を感じてしまいます。
それに比べて米国は、石を投げたら弁護士に当たると言われるくらい弁護士が多いし、なんでもかんでも訴訟だし、裁判制度はというと陪審員制をとっています。
「12人の怒れる男」(シドニー・ルメット監督ヘンリー・フォンダ主演1957)という名画で、僕は初めて陪審員制度がいかなるものかを知りました。この制度の基本は、米国民の良識を信じるところにあります。この良識をもって、裁判制度を成り立たせる自信は、ちょっと日本では考えられません。これらの信念に近い裏打ちは、どのような複雑な事件・状況でも、微細な論理によって必ず真理に導かれるという言語世界観です。
そんな世界で研かれた弁説は、ほとんど芸術の域です。たった1語、たった1つの動作で裁判(真理?)の行方が変わる緊張感は、読んでいてゾクゾクしてしまいました。

肺ガンで夫を失った妻が、4大タバコ会社を訴えました。全ては、陪審員の評決の結果に委ねられます。
当然ながら、双方から脅し、買収、…法の裏で熾烈な駆け引きが繰り返されます。
ところが…。


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唯一の過ちを考えだすのではなく、たくさんの過ちを想像するのだ。どの過ちの奴隷にもならないために。

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完全は立証することが出来ない。なぜなら、完全なるものは歴史をもっていないから。

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心をモノの初めに遊ばせる。

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私は、「私」を意識していないところに存在しているが、意識していないものは、存在しているとは言えない。

ゲイ・スタディーズ/キース・ヴィンセント他 青土社

本書は、歴史編・理論編・実践編の3部構成になっていて、ゲイ問題を考える入門書としても、現在の日本のゲイをめぐる情況を知る本としても、最良の本です。
先月から続く徳サンの同性愛論として、カミングアウトとクイアー論を考えてみたいと思います。

カミングアウトとは、同性愛者が自分の性的指向(セクシュアリティー)を、他者に表明することです。同性愛者は、自己のセクシュアリティーを表明しない限り、異性愛者とみなされます。その場(クローゼット=異性愛者と思われている場所)からカミングアウト(出る)ことによって、同性愛者のアイデンティティの形成が初めて生まれるのです。はっきり言いましょう、カミングアウトしなければ、彼らは自己の主体性を獲得できないのです。
では僕らは自分の性的指向を、公的領域(パブリック)に表明するでしょうか。異性愛者は、カミングアウトしなくてもアイデンティティを保つことが出来るのであり、わざわざ言うべきことではなく、あたりまえの属性だと考えているんです。ここが、異性愛者たちの私的領域(プライベート)と公的領域(パブリック)の区分けが成立している場所です。これは社会性を生きている人間社会の基本理念だと、僕らは無反省に考えているんです。
同性愛者と異性愛者の私的領域と公的領域が、違うのが今の現状です。
カミングアウトは、この私的領域と公的領域の区分けの定義に抵触するんです。異性愛者にとって言うべきではない私的領域を、彼らは持っていないのです。いや、もたされてはいないと言うべきでしょう。彼らは、いわゆる私的領域を公的領域に曝して初めて“私的領域”をもつ存在となるのです。そんな彼らを“私的領域”と“公的領域”をもった主体として認めるということは、今我々が無批判にイメージしている私的領域と公的領域を破棄し、再定義するしかないのです。つまり、同性愛者を認めてゆくということは、自分たちの社会通念の否定と変革を意味しているのです。
異性愛者たちの社会における同性愛恐怖(ホモフォビア)の本質は、異性愛者が自分たちの社会様式・性の様式を死守しようとする、無意識・意識的抵抗なんです。

本書は、先月少し書いたクイア論批判も載っていて興味深く読みました。そもそも「クイア」とは、異性愛者から同性愛者に投げ掛けられた蔑視語です。奇妙な・変態などという意味なんです。では、なぜ彼らはそのような蔑視語を、声高に言いだしたのでしょうか。
同性愛者の運動は、はじめマイノリティーとしての権利獲得の運動でした。その運動が進んでくると、今度は同性愛者間での、差異と差別が生まれてきたんです。黒人ゲイ・ユダヤ人のゲイ・異性服愛好者等への差別が。
これらの問題を乗り越えるために出てきたのが、クイアセオリーです。クイアの単語を使うことによって、異性愛者との違いを浮き彫りにし、同性愛者としての主体性を確保する。そして同時に、同じ性的指向をもつ同志であるという理念によって、同性愛者間の差異をなくそうとするのです。
それに対してのクイア論批判は、今ようやくゲイ&レズビアンの人たちがカミングアウトをして、無名時代から主体の時代になったのに、この理論の導入により差異がなくなり、また無名化し異性愛中心主義に埋没してしまうというものです。
これは良く分かるし、そうあってはならないと思います。

しかし、僕の考えるクイア理論は、同時に異性愛主義すら解体し、異体としての単独者のみが存在するのです。勿論、ここで「クイア」を使う問題は派生するかもしれません。しかし、僕の「クイア」という概念は、異性愛者をも含む単独存在での「異体」として、とらえ直しているのです。
自己認識におけるセクシュアリティーの微細な差異は、異性愛でも当然存在しています。異性愛という‘普遍’あっての‘異端’ではなく、中心無き「異体」を提示することによって、異性愛・同性愛をも含んだ個々の異体を、存在の立脚点にしたいと考えたのです。
そこで初めて、セクシャリティを自己決定・選択するのです。
僕は異性愛者である。私は同性愛者である。ここに等価な差異性が生まれると考えます。
この平等主義と個人主義は、様々な問題と批判が十分考えられます。
分かります。
しかし、「異体」をなにか本質的に存在するものとしてとらえる愚に陥ることなく、また総て核無き空虚論として開き直る前に、具体的な悲しみや、怒りに向き合える“生の様式”を獲得する必要があると考えます。
これが、僕の異体論です。

本書の中で、再三彼らから提示される言葉があります。
『私達は、同性愛者だが、あなたたちが思っているような「同性愛者」ではない。』
この切実な表明に僕らは、異性愛者の社会が作り上げた「同性愛者」を、考え直さなければなりません。
それは取りも直さず、異性愛者の自分を考え直すことなのです。

虐待を受けた子どものプレイセラピー/エリアナ・ギル 誠信書房

先月読んだ「凍りついた瞳」を引きずったまま、児童虐待関係の本を数冊読んでみました。
様々な形で子どもに降り掛かる弊害に、どう対処したら良いかと考えたり、行動したりする人々も増えてきています。
事実、暴力に怯え、心を荒涼たる凍土に変えている子どもがいるかぎり、どのような方法でもいいから、とにかくその情況から救ってあげたいと切実に思います。極端に言えば、その子が本当の意味で救出されるなら、どんな方法でも良いと思います。様々な子どもが存在しているのですから、単一の方法で全ての子を網羅することは出来るはずもなく、多様な方法が求められるはずだと考えます。ただ、色々なやり方をしている書物を読んだり、療法者達と話をしたりすると、その方法に精力を傾けている分だけ、自分のやり方の優位性を信じて疑わない姿勢が見えて、僕の気持ちは減速してしまいます。
確かに、そのやり方で万人のうちたった1人でも救えるのなら、僕はその方法を認めます。また実際に救えた子がいなくても、救える可能性があるかぎり、その方法を認めます。
多様な人間が対象である原則から、あらゆる療法や運動は、限りなく謙虚であるべきだと考えます。
はじめに、子どもと親ありき。そこからです。
カウンセラーでの救済理念・方法も、あまたある方法の1つです。勿論万能ではありません。しかし、こどもの精神世界のイメージと、具体的な技術・方法論は、基本知識として習得しておくべきです。特に、カウンセラー達の禁欲的なまでの言葉選び、空間・道具への厳選、綿密な治療方針、それらの技術は学ぶべきところが多いです。
ここに書かれていることは、何も特別な境遇におかれた病的な子ども達の話ではないのです。子どもの世界とは、どんな世界なのか、大人や外界からどのような影響を受ける世界なのかを、イメージしているのです。

子どもと接するあらゆる人々が読むべき本です。

凍りついた瞳が見つめるもの(被虐待児からのメッセージ) /椎名篤子編 集英社

「小学校にあがる頃…お仕置きをされるのです。先ず全裸にされ、電話コードで体をグルグル巻きにし、ふとん叩きで殴ります。その他には、水風呂といって流し台にのせられ、気絶寸前まで水道の蛇口に口をつけてこじあけられ、全身びしょびしょになる位水につけられます。…理由もなく食事をさせて貰えないで、床にすわらされ“そこで見ていろ”…夜中じゅう親の寝ている足元で朝までポーズを取っているように命令されたり…」

「…寝ている所を上からお腹の辺りを足で踏んだり蹴ったり、目が腫れる程殴られたり、まだ傷口が治っていない所をぎゅうと押されたり、真冬に裸足で外に出されたり…」

「…台風かなにかで雨も嵐もすごかったが、このころは部屋にいれてもらえずベランダでねおきをしていた。…ベランダのすみでねていた私に、ビールびんでなぐりかかってきた。頭が切れた。血がいっぱい流れてきた。母親もおどろいていた。そのすきをねらって、外にとび出した。…」

「私が4歳のとき…母は、私の目の前でも義祖父と関係を持つようになりました。…その後です。…義祖父は、私にも同じことをしてきたのです。私はこわくて泣きじゃくり必死で抵抗しました。すると、彼は私が抵抗する気力もなくなるほど殴ったんです。もっとひどいのは、それを母は何も言わず、じっと見ていたのです。薄笑いを浮かべて。さらに手伝ったのです。私の手をぎゅうっと掴んで足を開かせ、義祖父のやりやすいように…」

「主人の事でイライラして、生後3ヵ月くらいから娘に暴力を、ふるっています。最初はほっぺをたたいたり、足をつねったり、タバコの火を押しつけたりしていましたが、子どもが大きくなると、蹴ったり水風呂に頭からつけたり、もう考えられないことをしてきました。でも、あとで後悔するのです。本当は苦しいのです。どうしていいのかわかりません。」

「…私自身がパニックになってビンタしたりしている時は止められない状態になり、殺してしまうのではないかと思っていました。息子も声がかん高く、泣くとキンキンしてよけい腹がたち、おこる原因は、やった何かより、その声で怒りが増大していたのです。…」

「私自身は両親に体を傷つけられたことはありませんが、言葉でずい分傷つけられたことが、今でも苦しい思い出として残っています。…夏の暑いある日、息子が泣いた時、私は1メートル位の高さから布団の上へ故意に、落としてしまったのです。…私はいつものようにハッと我に返り息子を抱き起こすと、布団に血がついていました。口にも血がついています。…私はきっと弱い人間なんでしょうね。わかっているのですが、強くなるにはどうしたらいいのでしょうか?私よりも苦しんでいる人は、もっといると思いますが、私も今、とても苦しいです。どうかお返事下さい。
そして虐待をしてしまっている親も、苦しんでいること、精神を病んでいること、その理由があること、わかってあげてください。…どうか、そんな親達を救ってください。親達が変わる糸口を見つけてあげてください。」