“IT”と呼ばれた子 /デイブ・ペルザー 青山出版社

その子は、母親から「IT」(それ)と呼ばれて生きていたのです。
私は、本書についての感想の言葉を全て奪われてしまいました。
その事実の前に、どう立てばいいのか…

「心の性」で生きる(TRANSSEXUAL) /八岩まどか 朝日ソノラマ

「性同一性障害」という言葉が、ようやくマスコミ等を通じて僕らも知るところとなってきました。「身体の性と心の性が同じではない」その事は、ちょっと想像しずらいのですが、その様な人達もいるのだな、ぐらいにしか思っていませんでした。
身体は男で心が女の人が、男の人を好きになった場合、見た目では同性愛的関係だけど心的には異性愛ということになります。また、同じTS(トランスセクシュアル)で、女の人を好きになった人は、同性愛なのでしょうか?それとも異性愛なのでしょうか?そう、始めの「性同一性障害」「TS」「同性愛」「異性愛」という様な言葉に囚われたままの発想は、詰まるところこんな混乱でドンズマリとなってしまうのです。
本書は、そんな言葉を知っているだけで納得したり理解したと思っていた私には、目からウロコの本でした。いやそんな生易しい事ではなく、ずっしりと堪えました。この重さは、すぐには回答が出ませんが、しばらくは持ち続け、時々取り出して自問してみる重さです。
身体は女で心が男の人で、男の人を好きになった人がいました。そして、その人は、その状況を受け入れるまでに多くの混乱と抵抗、苦悩を経て現在に至っています。そんな実存する人がいるのです。ともすると私達は、個々の人間をある言葉の枠を被せて納得してしまっています。
また、被せられることで、安堵することもあります。「障害者」「主婦」「子ども」「三原徳久」「アフリカ人」そして「男」や「女」などの言語群は、皆その危険性を孕んでいます。自分のことを認め、他者を認めるということは、もっと「具体的」なところから始めるべきなのでしょう。
私の身体の性が何であり、心の性が何で、そして他者を好きになるということ。それらは、皆「ナマモノ」である、ということを再確認させられた良書でした。

ヴィジュアル百科江戸事情1〜5 /NHKデータ情報局

江戸時代の文化は、紛れも無く現代の私達の生活に直結する文化です。
しかし、そのたかが百数十年前にこの地、その人々の全てを規定していた文化を、僕達は全く知らないと言っても過言ではありません。
テレビの時代劇や歴史小説は、はっきり言って、実際とは大きくかけ離れているのです。それを踏まえた上で、フィクションとしての江戸時代を楽しむことに何ら意見を挟むつもりはありません。しかし、それは、江戸時代という看板を掲げたレトロ喫茶にすぎないことは、認識しておいた方が良いと思います。
この本は、言語ではなく、それらの生活や風俗などを図絵として示している資料を中心に編んでいます。これは本当に楽しいし、驚愕に満ちています。僕は、曼陀羅の前に立っているかの様に細部を覗き、そしてまたその横の細部に見入るという行為を繰り返し、ビジュアル本であるにも関らず、他の本より倍以上時間がかかってしまいました。この様に細部の生活を覗き込んでみると、知らないことばかりです。全く見たことも聞いたこともない風習が、当時の常識としてあったり、補足的な儀式が中心儀式となっていたり・・・・
今の自分が刹那であるということは、未来に対しても過去を見ることに対しても“刹那”であるということです。物理学者のボーアが言うように、その地点を知るという事は、過去と未来で描く軌跡の単に「可能性」を知ると言うことなのかも知れません。現在の刹那とは、過去(古典的資料)と未来(将来技術の可能性)の比率に頼っているのです。
実はこの本は、図書館で偶然に見つけたものなのです。
「この本を買おうよ。時々ぺらぺらとめくって見るには、最高だよ!!ほら!ここに居る女の人の立て膝とか、部屋の隅に奇妙な物が転がっているよ・・・・こっちの人、何を話し掛けているんだろうね・・・・あっ。見て!これ。ほら、ほらこれ!」
今、我が家の元締めにお願いしている最中ですが、彼女の胸中は別の意味でウンザリしているようです。
しっ。シマッタ!

李歐/高村薫 講談社文庫

今までの高村文体に惹かれていた読者は、なんか水で薄められたような印象があると思います。僕も第一印象で言えば、まさにそうでした。ここまでの文体の変化と、その前作の「レディー・ジョーカー」を合わせて考えてみると、いくつか気付くことがあります。
その一つで言えば、女性を描こうとしていることです。今までの作品の中では、女性像は印象がかなり薄かったです。例外をあげるとすれば、「照柿」ぐらいでしょう。しかし、それでも主軸は男性世界においていましが・・・
では高村女史は、何故に女性を書こうとしたのでしょう?それは多分、現実へのアプローチの仕方を変えたいと考えたのだと思います。
今までの高村世界は、誰もが感じている現実と気持ちとの齟齬を体現し、なお且つ純粋培養された登場人物達が、醒めた目と頭脳でたった一度だけ現実に復讐するという物語なのです。それは、計算され尽くされた構成と、僕らが持っている鬱屈が同時に表わされているので、自己満足とともにカタストロフィーを味わうことが出来たのです。それはそれで、その完成度の高さから他に類を見ず、彼女の世界を待ち望んでいました。
しかし、前作で多分彼女は、合田の告白と、高村女史自身のクローズされた世界構築に嫌気がさしたと言おうか、限界を感じたんだと思います。
今回の作品は、彼女が取り組んだ実験作だと思います。成功したかどうかを問われれば、目標の高さからすれば失敗でしょう。しかし、同じ試みをした「照柿」より根本的な構成や文体に手をつけたところに、作家の現在に反応している鋭敏さが伺えます。今回の作品が文庫化から入ったこと(単行本ではなく「神の火」も文庫版を正本としてましたけど)などを考えると、現代の文学の状況に確信的な試みだったのだと思います。
「李欧」の下敷きになっている「わが手に拳銃を」を、再度読み直してみました。この作品(わが手に〜)は、高村女史がかなり同性愛的な惹かれあいに気が向いていることに、自身気がついた作品だったのだと思います。

ここで少し言葉を添えておきたいと思いますが、僕は高村作品の中で流れるこの様な雰囲気は、当初意図的なものと思っていました。登場人物達が惹かれ合うことで、読者がどう受け止めるのかは勿論作者は計算しています。例えば、その構図を男女間にしてしまうと、単に恋愛感情の領域の問題と捕らえられる恐れが生じてきます。高村が欲したもっと普遍的であり運命的な、個人と個人の引き合う感情を表現したいと思ったとき、あえて同性にして、男女間を避けたのではないかと思った訳です。それはそれで、なるほどなと思い、より個人の避けられない鬱屈を表現するにはこちらの方が良いかなと思っていたのでした。大体が世界文学を見ても、その様な個人の運命を表現するために、又ベースとして同性愛の問題(レズビアンはいまだに偏見の中にありますが)の一般性のために、珍しくありません。しかし、文学的意図と、言葉が紡ぎ出てくる有機体とは一致しません。それはそれで、全く問題がありません。あえて言えば、その齟齬に文学性が潜んでいるのですから。
よって高村薫は、この作品を再出発とピュアな自分に向き合った起点に選んだと思います。

モリー先生との火曜日 /ミッチ・アルボム NHK出版

「生きているということ」「生きてゆくということ」
この言葉の後に言葉を連ねることの陳腐さと、反発を覚えますが、そう考えている自分が実は必死になって、その言葉を探し求めているのです。
本書の類の人生本とか闘病記は、嫌いながらも読まずにはおられません。あげくの果てには、必ず涙を流してしまう徳さんです。店などで読んでいるとどういう訳か、必ず感極まっている時にお客さんがカウンターの前に立って本を差し出します。そんな時僕は顔を向けられず困ってしまいます。ある時など、嗚咽を漏らすまいと懸命に堪えたのですが叶わず「クっ、ヴっグ」と奇妙な声をあげて、大の男が肩を震わせているので、気味悪がってお客さんが帰ってしまった事がありました。近頃は、家に持って帰り、夜半に一人思う存分泣いています。
彼ら彼女らが語る言葉には本心から感動しますが、反面その言葉で終わらない、いや終わらせないぞと自らに言い聞かせてしまうのです。まったく偏くつ極まりない奴です。「神」とか「愛」という言葉で納得できないし、納得したくないのです。せっかくここまでこれらの言葉を使わないできたのに、今際のその瞬間にそれを吐いたら終しまいだと、ぎゅっと握り拳をつくっては唇を噛んでいます。そんな不遜な私にも差別なく彼らは、慈愛の言葉を降り注いでくれます。イエスの無言の接吻は、完全に私を打ちのめしてしまうのです。
今日も彼らの「愛の言葉」を支えに、「不愛の言葉」を探しに徳さんは生きています。