脳が心を生み出すとき /スーザン・グリーンフィールド 草思社

ここ数年の技術革新は、凡夫の想像力をはるかに超えて、全く考えてもみなかった生活様式を作り出してきました。
年長者苦言の標的第1位は、何といっても街角や車中で携帯電話片手に話をしている人達でしょう。しかも、みんな一様に、眼は虚をさ迷い、ギラギラとした言葉で彩られています。携帯電話やPHSが一般化し始めたころに、電波が脳を狂わすとかの危惧は聞かれましたが、現在の様に小学生から電話を持ち、所かまわず会話し続ける風景を、言い当てた言説は聞いたことがありませんでした。

新しい道具の出現は、その地点から延長した未来図をひらりと飛び超えて、全く見たこともない風物詩を造り出します。所詮人間の想像力など、現実の摩訶不思議にはついて行けないのでしょうか?
それならそれで、これからどんな風景が僕らの前に出現するのか楽しみでもあります。
この前新聞で相手の顔を見ながら会話が出来る、PHS(ビジュアルホン?)の広告を見つけました。きっと近いうちには、あの公衆電話の側やコンビニの前で座り込んで話をしている彼らに、お目にかかる事になるのでしょう・・・。

でも、その風景は、既に何処かで見てきたような気がします。

誰の家にも冷房など無かったあの頃、夏休みには決まっておばあちゃんの家に遊びに行っていました。僕と弟は、シャツに汗の跡が浮かび始めると、普段の生活とは違った刺激に満ちているその夏休みを、指折り数えて楽しみにしていたものです。そんな期待をいつも裏切らない、水滴と笑いとアイスクリームの楽天地でした。
おばあちゃんはいつも遠眼に僕らの遊びを見つめていましたが、時々ふっと僕らの前から姿を消して、奥の部屋に入っていく時がありました。そして、その部屋からボソボソと話し声がしばらく続き、不意にその声が途切れるとふすまを開けておばあちゃんは僕らの元へ帰って来るのです。始めは誰かがその部屋に居て、その人と話しているのかな?と思いはしましたが、それ以外の時はしんとして人の気配もありません。
気味が悪くて人にも聞けないまま、夏休みも終わりに近づいたある日、ついに勇気を奮い起こしておばあちゃんの後をついて行き、そのふすまを少し開けて覗いたのです。
そこで僕が見たものは、位牌をありがたそうに持ち上げてにっと笑いながら話し掛けているおばあちゃんの姿でした。
「いいよね。おじいちゃん。・・ゆるしてくれますよね・・・だって、隣のイネさんだって、買っているんですよ・・・」

街角の彼らも、こんな風に位牌を、いや携帯に向かって話しているのだろうか?

すごい道具を生み出す人間の脳は、もっと凄いのだという説明ばかり聞きます。
しかし、どう凄いのかと言えば、分からないほど素晴らしいのだそうです。そう聞くと、そうかやはり凄いものだなと、なんとなく思い込んでしまいますが、それって実は何の意味もありません。
本書は、そんな「なんとなく」をもう一度「ぎゅっ!」と締めあげて、きちんと基礎生理から積み上げて分り易く説明してくれます。色々な道具に囲まれながら、知らず知らずのうちに多幸感のエンドルフィンに満ち満ちている僕らは平和です。それは一概に、悪いことではないと思います。苦しいより楽しい方が良いのですから。それでもなお、何かが残ってしまうのです。何かが・・・


脳のシステムは分りません。
分るという理解の方法だけでは漏れ出てくる「何か」を含んだシステムが、脳なのです。

「コーラン」 /岩波文庫及び世界の名著
「ハディース」 /中央公論社(上・中・下)
「コーラン」 /井筒俊彦著作集7 中央公論社
「コーランを読む」 /井筒俊彦著作集8 中央公論社

「イスラームの心」 /黒田嘉郎 中公新書
岩波講座東洋思想第3・4巻 /イスラーム思想1・2
「イスラム思想」 /加賀谷寛 大阪書籍
「キリスト教とイスラム教」 /ひろさちや 新潮選書
「イスラームの原点」 /牧野信也 中央公論社

ネットでのやり取りをしている中で、ある大学院生とイスラーム教についての話題になり、専門である彼からの紹介本を中心に、イスラーム教一色の6月でした。
要点をまとめながらのノートが数十頁になる中、僕らの社会が全くイスラーム思想を曲解している社会であるのだと痛感しました。


そりゃそうでしょう。
欧米の思想圏である日本は、まさしくイスラーム教を敵対視しているキリスト教文化が絶大なのですから。敵のことを良いように言うはずもなく、キリスト教の痛いところを突いて生まれてきた彼らの批判点を、知らしめるはずがありません。
キリスト教としてその形態が確立し、勢力を拡大していく中、イエスから約600年後に神からの啓示を受けたとして布教を始めるムハンマド(モハメッド)は、キリスト教の根本構造のなかに、神と人間との本質的誤謬を指摘します。

よく知られているように、イエスはユダヤ教徒でした。彼がユダヤ教思想の中でもっとも注目したのは、神の絶対化です。正確に言うと、「神」ではなく「神の愛」の絶対化(アガペー)です。その絶対愛を強調することによって人間は、原罪をもった罪人であると同時に、神の愛によって救われる迷子であると位置づけたのです。
その為に「皇帝のものは皇帝に、神のものは神へ」という現実世界と、精神世界(神)を分け、現実世界の上位に神を置いたのです。
キリスト教とは、そのイエスを神と人間との橋渡し的要素として取り入れ、構築していった宗教なのです。その為、比類なき存在のはずである「神」に「神の子」という存在が生まれ、三位一体などという構造矛盾が生まれてきました。
と同時に聖書の中で教会の正統性を語らせることによって、神と人間の間に「聖職者」という特権階級を生んだのです。現実社会の上位にある精神世界(神)へは、この聖職者集団である教会を通してのみ可能となり、この構造が引き起こす悲劇や腐敗は、後年の歴史が雄弁に語っています。

ムハンマドは、いち早くこの矛盾に気が付きました。
神の前では、あらゆる人間が平等であり、聖職者の存在も自らがそうである預言者も、一介の人間でしかなく、その構図は絶対であると説きます。
後年にみられるホメイニ師の様な法学者の存在も、イスラーム教の中で分派していった宗派の考えで生まれた階級で、同じイスラーム教社会のなかには、その存在すら認めていない社会もあります。
ムハンマドの啓示した社会には、一切の特権化した階級を認めていません。それだけではなく、実生活を一生懸命営まないで、神へ近づく道を模索することを諌めているのです。修道院や僧侶や聖職者に向かって、孤児や未亡人、貧しき人々の為に働けとまで言っています。
イスラーム教のもう一つの特色は、神への信仰は心の中だけの問題ではなく、実際に生きている問題でもあるとしていることです。神へ正しく祈るということは、正しく生活するということに他ならないと説きます。
故に、近代思想の一つである政教分離という考えすら成り立たず、宗教は政治の問題であり、政治の問題は祈る民(ムスリム・・・イスラーム教徒)の問題なのです。分離しているとか、一致しているとかという思考は、すでに2項対立している地点からの思考でしかありません。完全に一体化しているものには、分離の問題は生まれないのです。

私達がイスラーム社会を見るときに一番分かり難いのは、無数の人達が毎日5回もかしずいて神へ祈るあのエネルギーと、中東の各国家を越えて何かことあることに出てくる「イスラームの大儀」という理念です。実はこれらの思想は、この政教完全一致から生まれ出るものなのです。
しかもムハンマドが強調するのは、神と人間との垂直の関係だけではなく、平等の個々人による助け合う共同体(ウンマ)という水平関係なのです。この共同体は、ムスリム(イスラーム教徒)全ての集合を意味します。家族、部族、民族、階級、国家を越えて提示される共同体であり、あらゆる共同幻想より優先されているのです。
イスラーム教のもう一つの大きな特色は、ここにあります。
神と個人との直接関係、そして個人と個人の平等なる共同体、その2本立てを実現する社会づくりがイスラーム教なのです。勿論ムハンマド亡き後からイスラーム教も様々な分派を生み、それに即した政治国家が生まれてきました。
しかし、ムスリム(イスラーム教徒)の目指す根本的理想社会は、神の前で正しく生きるこの共同体(ウンマ)なのです。またムハンマド自身が幼くして両親を亡くしたこともあってか、孤児や貧者に対して多くの言葉を用いる優しい眼差しは、人間ムハンマドとして好感がもてました。
イスラーム教社会は「コーラン」と「ハディース」で方向づけられています。「コーラン」は言うまでもなく神の言葉として示されていますが、「ハディース」は預言者ムハンマドの言行をまとめたもので、日常の具体的なことが多く書かれています。
「ハディース」でのイスラーム教徒の義務とは、以下の6つだけなのです。

1.挨拶すること
2.招待されたら、それに応ずること
3.他者から助けを求められたら、必ず助言すること
4.相手がくしゃみをしたら、その人のために神に救いを求めてあげること
(くしゃみは悪魔の誘いだと考えられています)
5.相手が病気になれば見舞ってあげること
6.死んだら葬式に参列してあげること

なんとも耳が痛い話です。