自殺って言えない自死で遺された子ども・妻の文集/あしなが育英会

この読書感想文(99年の10月)でも取り上げましたが、私はここ近年の自死に対しては、非常な危機感を覚えています。
自死はいけないとか、仕方がなかったとかいう感想や意見ではなく、もっと深いところでの赤いランプが点滅しているのです。

この文集は、「あしなが育英会」(03−3221−0888FAX03−3221−7676)が無料で配布しています。
ネットからも注文出来ます。
この文集だけは、推薦ではなく是非取り寄せてください。お願いします。
複数冊の取り寄せも可能です。
貴方が関わっている人に、可能な限り読んでもらってください。お願いします。

全く自殺なんて関係もなかった人、疲れている人、子どものことで頭がいっぱいな人、毎日が楽しくてたまらない人、お金がなくて困っている人、夏の海を楽しみにしている人、身内で心配事を抱えている人、ゲームに夢中な人、仕事がない人、彼氏や彼女のことが気になって仕方ない人、今まさに死を迎えようとしている人、今もまだバイトに汗流している人、メールを待っている人、対人関係で悩んでいる人、寝ている人、受験勉強している人、鋸をひいている人、本を読んだり音楽を聞いている人、泣いている人、閑をもてあましている人、お酒を飲んでいる人、セックスしている人、寒さに震えている人、今この世に生まれた人、家族の不幸に膝を抱えている人、ご飯を食べている人、死ぬことを考えている人、排便している人、戦争の恐怖に怯えている人、夢を実現するためにがんばっている人、祈りをささげている人、旅行している人、月や空を眺めている人、怒っている人、病気を患っている人、山を登る人、暴力に怯えている人、笑っている人、・・・・・そして、あなた。

あなたに読んでもらいたいです。

日本語練習帳/大野晋 岩波新書

少し前に大ベストセラーとなった本書をようやく読みました。

大野さんの本は、学生時代に日本語論などは読みましたがこのようなベストセラーを引き起こすとは・・・
橋本進吉・時枝誠記そしてこの大野さんと続く国語学の王道の本が、なぜ今?
「なぜ?」これがまず読む前に私が感じたことでした。

とにかく売れています。しかも長い期間で。
ということは、イッパツ花火ではなく、何らかの理由がそこにはあるはずです。
それを少し考えてみようと思います。

まず第一に、題名が「練習帳」ですよ。
そうすると、これを手にとる人たちの目的は簡単です。
自分の文章がもう少し上手くなりたい、という一念です。
中身はともかく、それこそ「日本語論」でもないし、「日本語概論」や「日本語の真理」「日本語構文」という表題ではなく、練習帳なんです。
人知れず練習すれば、誰だって少しは向上するのを保証してくれるのが、練習帳の大儀ではありませんか。
そうか、日頃使っている日本語が上手くなりたいんですね。
それは、私も切実に感じます。上手くなりたいです!

でも日本語は意識しなくても使えるし、日常会話で困難な状況に置かれているわけでもありません。
では上手くなりたい欲求にかられている人たちが、なぜこんなにも多くいるのでしょうか?

一つ考えられるのは、インターネットやメールの普及だと思います。
メールといって気軽に書いてはいますが、これは形態としてはメモに近い手紙を次々と繰り出しているのと同じです。
私は1日に数十通とメールを出していますが、今までの人生でこんなにも文章をしたためていることはありませんでした。
また他者からはその数倍のメールが届くのですが、他人の文章というものはどういうわけか上手に感じしてしまうんですよね。

嗚呼、もっと上手にメールが書けないかな〜とか、どうも思っていることが上手く言葉にならないしピタッとくる言葉が思いつかないんだよなとか、敬語や[は]と[が]の使い分けがいまいち自信がないなとか、いつも感じています。
きっと同じように感じている人が、ものすごくいるのではないでしょうか。
そのような人が、少しでも上手な表現をしたいと願っているのだと思います。

だとすれば、このごろの若い者は本を読まないとか、文章が下手だとかよく言われますが、メールを書き慣れて、しかもそれにジレンマを覚え膨大な言葉を生んでいるという事実は、本当は良いことのような気がします。
自分の気持ちや考えを言語化するということは、思考する基本だし、言葉に対する欲望を掻き立ててゆく必要不可欠条件だと思うのです。

短縮した言葉や、流行の言葉がたとえ眉をひそめるような言葉であったとしても、その言葉を生み出す前の躊躇や、言葉探し、ものすごい集中力から打ち出される指先の反復運動は、白紙を前に基本構文をなぞる世代の思考とは明らかに違う「世界」を準備しつつあるのではないでしょうか?
ひょっとすると、あのコンビニやバス停の前で必死に携帯電話に打ち込んでいる姿は、明るい未来を象徴しているのかもしれません。

とはいえこの日本語練習帳を読むと、つくづく「徳さんの感想文」は悪文の限りを尽くしているなと反省してしまいます。
しかし本当のところは、キーを打ちながらちょっと待てよここでこの言葉は・・・と立ち止まりはするのですが、代わる言葉も思い浮かばず、「ええい!まあいいや。」とやっつけてしまうこの生産者の姿勢に、根本的な問題があるのかもしれません。

となると、ここ当分は悪文の列記が続くこととなり、皆さんにただ慣れていただくしかないようです。

鉄道員(ぽっぽや)/浅田次郎 集英社
水滴/目取真俊 文藝春秋

97年8月感想文
私は毎回芥川賞と直木賞の作品は読むようにしているのですが、いつも「いいなー!」と感動(単に涙もろい?好みの問題?)するのは直木賞の方なんです。
これは一般的に言って、両賞の“文学”の表れの違いなのかもしれません。
又、取り方の違いだと言ってもいいでしょう。

今期芥川賞の「水滴」は、前半の幻想性と衆人の動き・反応に感銘はしましたが、途中から加わってくる余計な水脈が気になってしまいました。
文中での方言の使い方や沖縄戦の問題など考えることは多いし、作者の力量は確かなものだと思いますが、
この1作ではまだ消化不良の感が否めません。
特に方言については、この作品を契機に方言化の作品とその翻訳性の問題、生活言語と表現日本語としての本質的な問いが始まってくれればと切望します。
そしていつの日か「あっさ、みょう〜!」と言いたいものです。

「鉄道員」は典型的な人情短篇集なのですが、私はこの人情ものが大変弱く、いつも「てっ、てやんで〜」と、涙をぬぐっているのです。
まさに職人的な、心のツボの一押しです。

生きることの意味を問うたり、難解な思想や不条理を表現した文学が、崇高でも本質でもありません。
書店で平積みされ、ページを開いてもほとんど会話で白っぽく見え、読了感はへーとか、あー面白かったで終わってしまう作品が低級とか言うことも全くありません。

言葉を使って生きている人間の人生が広範且つ深遠である分、言葉で表現する文学の可能性も不定型で多様なんです。
ただ、そこには「心豊かな生」を生きたいと願う個人がいるだけです。

人は何のためになんて大上段に構えなくたって、一人一人小さな情に流され、振り返れば些細な思い出をゆっくりと積み重ねて生きている、そんなものだと思うし、そうありたいと願っています。