中国犯科帳/浪野徹=編訳平 河出版社

「皇明諸司廉明奇判公案伝」が原本の不思議な読み下し文です。
この不思議なというのは、完全な読み下し文(あの高校の時、漢文で習ったような・・・そうだったら、私は読み続けられません・・)ではなくて、使われている漢字に現代語的翻訳のふりがなが書いてある独特なものなのです。

・・・僧の海曇に打死(なぐりころ)されたのは是的(まこと)でありますから、・・・
・・・一桂はかの女の容貌を闖(うかが)い見て、千万(いろいろ)と計較(てをつく)してとうとう与(とも)に情を通じ合うように得(な)った。・・・

このバランスが絶妙なんです。
今は横書きですから少し感じが違うのですが、本書は縦書きで文章を追いながら中国文らしい漢字が出てくると、目でその漢字を見ながらふりがなで意を汲み取ってゆくのです。
また反対に、この翻訳ふりがなを読みながら、漢字を振り返り表意文字の世界に遊ぶことも出来ます。
これは他ではちょっと真似できない、面白い体験でした。

また「竜図公案」の挿絵が文に添えてあって、その当時の生活が伺い見れると同時に、いかにも中国の冊子を繰っているような興奮も味わえます。

その当時の事件や犯罪が、物語仕立てで書かれていて読みやすく、新聞の三面記事を読んでいるようなスリルと好奇心を満たしてくれます。(それにしても人間の業って、いつの世も・・・)
犯科帳(公案)とは裁判記録ですから、双方の裁判申し立て書が挿入されていたり、状況証拠の中で判事が苦悩したりしますが、最後には判決文がきっちりと締めてくれます。
後日譚としてその裁判が誤審であることが判明することもあるし、拷問(中国の拷問ですから・・・)の末に白状させたり、おとり捜査・取引裁判・神頼み(?)まであり、とにかく痛快です。
中国文学には、伝統的に「公案小説」というジャンルがあって、各種の犯罪を題材にしながら人間の愛憎や欲望を庶民の視点で描いて最も人気ある一つらしいです。

そういえば日本にも、大岡越前守とか、遠山の金さんがありましたね。
その原型は、ひょっとしたらこの「奇判公案伝」だったのかも・・・・

天使の記憶/ナンシー・ヒューストン 新潮クレストブックス

原題の「天使の刻印」とは、この世に生れ落ちる瞬間に、赤ちゃんの鼻と唇のあいだにあるくぼみに天使がそっと指を当て、天国での記憶を消し去ってしまい、純粋無垢なままで生まれてくるというユダヤ人伝承に由来します。
しかしそんな無垢なままに生まれてきた人間がその後作り出してゆく歴史や社会のなんと罪深く、天使の刻印からはるか遠くに漕ぎ出してしまうものか・・・

ひょっとするとそんな宿命の一因は、人が人を愛してしまうからなのかもしれません。
愛が故に独善の想いに身を焦がし、相手の独占を画策したり、一身化したい激情にかられたりもします。
その「愛」の為には、他者をこの上も無く不幸に落としうることもあるのです。
愛とは、無垢の対極で、人間の人間たる証なのです。
もしも正直にこの「愛」を語ろうとするならば、この小説のようにそれは「激なる」ものになるしかありません。

1957年5月、青白く空ろな目をした一人の少女がたたずむシーンからこの小説は始まります。
この先に繋がる暗く美しく尚且つ衝撃の物語が、我々の心を捉えて離しません。
しかし、これは決して単純な恋愛小説ではないのです。
救われない三角関係であり、歴史や社会小説でもあり、民族の慟哭であり、音楽の調べでもあり、テキスト的現代作品でもあり、母語(ムッターシュプラーヘ)の「人間物語」なのです。

現代思想の冒険者たち(14)ポパー批判的合理主義 /小河原誠

(97年7月感想文)

批判的合理主義と銘打たれた本書は、パポーの思想的姿勢が示すように、論理学、確率論、社会科学、進化論、哲学他と恐ろしく広い範囲に及ぶ領域をその舞台としています。
しかし一読した印象としての根本原理は、「反証可能性」といういわゆる論理学及び科学認識方法だと思います。
論理学の本なんか読むのは、私がかつて最も感銘を受けたヴェトゲンシュタインの『論理哲学論考』以来でして、完全に錆付いた脳細胞をガリガリいわせて読みました。

ベーコン以来、科学の理論を導く方法として゛帰納法゛がとられてきました。
それは簡単に言うと一つ一つの事象から、それら全体に当てはまる法則を見つけ出すという方法です。
しかしポパーは、「帰納法は論理的には成り立たない」と驚くべき証明をしてしまうのです。
つまり、個別の観察から一般法則への帰納を行うためには、帰納を成立させる原理が必要であり、いままでその方法でうまくいっていたという反論は、帰納の原理を正当化する為に帰納を行っているということで、それでは帰納の原理の証明は成り立たないと考えるのです。

ポパーは言います。
「法則的証明は実証されないが反証されうる。」(反証可能性)と!
帰納法という法則は、故に存在証明はされていない。ただ反証を待っている法則であり、仮説として保持しているだけであって、唯一言えるのは、「反証される可能性がある」これだけだと。

この反証可能性をもった法則こそが、科学がとりうる基本法則であり、加えて言えば科学の方法とは、積極的に反証を試みる続けることだ!

この思想は、その内包している意味ゆえに彼を必然的に様々な分野との論争に駆り立ててゆきました。それも生涯をかけて。
反証可能性はあくまでも原理であって、そこから派生する彼の思想は、対象が変わるたびに斬新な切り口を僕らに見せてくれます。
当たり前の論理的流れだと思って理解していた私は、その一言一言が、エッそんな馬鹿な、でも、なるほど言われてみれば、じゃあ今までの理解は・・・・

ただどうしても、彼が諸問題に取り組む時の論理イメージが、ダーウィニズム的なのが非常に気になってしまったのです。
知っての通り、ダーウィニズムの“自然淘汰”は現在かなり怪しくなってしまっています。
反証可能性という卓越した論理を生んだパポーも、自分の発想の根幹に反証は出来なかったのだろうか・・
いや、そうではない。
反証可能性を持っているが故に、この「反証可能性」は優れた思想であるのだ。