体の贈り物/レベッカ・ブラウン マガジンハウス

介護の問題や病の問題、そしてエイズの問題が日常の中の「事件」ではなく、常態となって背景に溶け込んだ時に初めて浮かび上がってくるのが「人間」としての問題です。
そして、それが広義の意味での「文学」の前提条件だと思います。

アメリカでは、もはやこれらの問題は特異でもなく、また特殊な環境として日常の中から排除することもなく、人が日々の中で生きてゆくこと、死してゆくこととしてどのように背負ってゆけばよいのかの、覚悟と思索が行われているようです。
しかもその問題を「一般」化した問題としないで、個々の心の揺らめきを尊重した事実として目線を先に向けようとしています。
このような美しい物語として・・・・

様々な障害者や差別の問題、高齢者の問題、一国の首脳陣の言動・・・・日本に文学が生まれるのはいつになるのでしょう。

審問上下/パトリシア・コーンウェル 講談社文庫

ずばりこの作品は、ミステリー史の中である意味大きな転機を示すものだと思います。

奇抜なトリックがあるわけでもなく、人の神経を逆なでする残虐シーンがあるわけでもなく、話題の映画シリーズの原作でもありません。
この作品に通底しているのは、これらサスペンス小説では欠かすことが出来ない殺人事件や悲劇に対する、「作者の怒り」なのです。

現実の事件は、当然ながら犯人がつかまったり危険が回避して、終って(!)しまうわけではありません。
事件という事実のその後は、心に大きな傷を負わされた被害者やその親族及び加害者とその家族、いやその関係者すべての人々に苦悩と絶望の時間が待っていて、外部からは窺い知れない地獄の日々が横たわっているのです。
事件の悲劇の一面は間違いなくそこにあって、それに対する無神経なマスコミや社会の無理解への著者の憤りは、深く胸に突き刺さってきます。

痛快な謎解きや勧善懲悪的な解決に日々の鬱積を晴らしていた私は、フィクションを読む心持ちで現実の報道事件や三面記事に好奇の瞳を輝かせていたのではないかと深く自問しています。

桜子は帰ってきたか/麗羅 文春文庫

「桜子は帰ってきたか」
なんとも不思議な題名です。
桜子とは誰?帰ってきたかとは?・・・座りの悪いと言おうか、謎めいているというか、題名から何のジャンルなのかも想像できないこんな書名ってあるでしょうか?

しかし、読了した人にとっては、生涯忘れることの出来ない特別な書名になってしまうことは間違いありません。
心の奥底に、「桜子は帰ってきたか」という重い碑石が沈み込んでしまうのです。

探してあげて下さい。桜子を。
どこかの書店の隅で、彼女はひっそりと待ち続けています。
36年という時間を変わらぬ想いで。
数千キロという距離と、身を裂くような寒さの中。
アスターの花束を胸に抱きながら。

失楽園/渡辺淳一 講談社

(97年6月感想文)

本屋の業として、話題の本は一応その時に目を通すのですが、それにしてもこの本の反響はすごいですね。
映画の効果もあって、今だに売れ続けています。

正直に言います。1ページ目を読んだ時点で止めようと思いました。稚拙な文章。下手な性描写。創造力の無さ、薄っぺらな状況設定に人物描写・・・

だが、全く何の理由もなく数十万冊も売れるとは思えません。
じゃあなぜ今その作品が売れるんだと考えてみると、別の局面が現れてきます。

新聞の連載だったこと。
セックスが前面に出ていること。
レディースコミックや週刊誌などで、女性が性描写を読む機会が増えていること。
ソフトSMというスタイルが市民権を得てきたこと。
渡辺淳一という作家のワンパターン文体が、単一が故に固定的読者層をもっていたこと。
彼の保守的な日本伝統文化に対する幻想が、読者の欠如感と憧憬を刺激したこと。
最終的に、女性が男性よりも精神的に優位に立つこと・・・

そしてこれらを通して、この本の最も現代的で優れていることは、「身体性への完全な帰依」だと思います。
このことが、現在の読者の無意識と相通じ、社会現象化していったのです。

本書で描かれているのは久木と凛子との「精神愛」なんかではありません。
「性の一致」ただそれだけです。
最後に交わす2人の会話は、「生きていて良かった。」「ありがとう。」でしたが、これは、“あなた”という総体ではなく、“あなたの肉体”への別れと感謝の言葉なのです。
読者は精神愛なんか信じちゃいません。それで死なれちゃ嘘っぱちだと思うだけです。
しかし、二人の性が数万人いや数十万分の1での一致であるなら。
そんなに気持ちがいいのなら。
その為(!)に死ねるなら、そこにはリアルがあるかも知れないと我々の無意識層が呼応しているのです。

「私」を確認しにくい現在、「感じる」この体験だけは「私」だけのものです。
もう人は、道徳や人倫の為に死ねないのです。
道徳は、性設定としての燃える道具でしかありません。
不倫が2人にとって燃える要素なら、夫婦関係を解消した後にそれぞれが再婚して、不倫として会おう。
それぐらい性は自由になってきています。

男たちが古いレイプ神話にしがみついている間に、女性達の豊かな創造力は、ずいぶんと先に行ってしまったのかもしれません。