ぼくらはみんな生きている 18歳ですべての記憶を失くした青年の手記/坪倉優介

これは凄い本です。
ここまで人間の原初の状態を表現しえた本は、多分初めてではないだろうか。
あらゆる記憶を無くしてしまうと言う事は、ここまで無くなるものなのかと息をつめてその世界を想像しては、ショックを受けてしまいました。

目のまえにおかれた物の中には、うすっぺらな人がいる。
動かないし、なにも話さない。
ひとりの人がアルバムを見ながら「これが赤ちゃんだったころのゆうすけよ」と言う。
でも、赤ちゃんと言われても、分からない。
アルバムをめくりながら「これが三歳のころのゆうすけ、これが五歳のころのゆうすけ」と説明してくれる。
よく見ていると、ゆうすけと言われるものの形がどんどんかわってゆく。
そして最後は「高校生のころのゆうすけ」までいった。
もういちどアルバムの、最初にもどって見てみる。
すると、横にいる人が「これがかあさん、そして母さんに抱かれているのは、赤ちゃんだったゆうすけよ」と言った。
その人の目や、笑う口の形はやさしくて、いつもゆうすけという人を見つめている。
その人の目は、いまここにいる人と同じではないか。
そう思うと、なにかが背すじを通っていく。
それを声に出したい。だけどなんて言えばいいんだ。
するとその人は、やさしく笑いながら「かあさんだよ。」と言った。
それをきくと、ひっかかっていたものが、なくなっていく。
胸があつくなる。そして口がかってに動いた。
「かあさん。ぼくのかあさん。」

完全なる無垢とはこんなに優しいものだったのですね。
この無垢な眼差しは、我々はすべて赤子のときに経験しているのです。

脳のなかのワンダーランド /ジェイ・イングラム 紀伊国屋書店

右耳のうしろ斜め上にある脳の頭頂葉にダメージを受けると、右側だけは認識できるけど左側を認識できないと言う、奇妙な症状を持つことがあって、それを「半側無視」と言います。
カレーライスを食べていると、皿の右半分だけを食べ終えて、ご馳走様と手を合わせます。
本人はいたって真面目で、自分の皿の上には何もなくなったと認識しているのです。
そこで左半分残った皿をひっくり返すと、突然自分の皿に満杯の(残った半分ですがそれが右側すべてを占めるので)カレーライスが出現したと驚くのです。

視覚障害で、視野が狭くなって見えないのかと言えばそれとも違って、視覚には写っているけど認識できないのです。
というのも、そっくりの家の絵を二枚縦に(!)並べて患者に見せます。
下の絵には、患者から見て左側に真っ赤な炎を上げて燃えている家が描かれています。
患者は右側しか認識できませんから、「2枚は、全く同じ家の絵です。」と何度聞いても答えます。
しかし、「では、貴方はどちらに住みたいですか?」と聞くと、「上の家です。だって住みよさそうじゃないですか。」とか、他の理由をつけて(作話)でも、燃えていない家を選ぶのです。
もちろん上下を入れ替えた場合でも、結果は同じです。
つまり無意識の領域には、この火事の意味は伝わっているのです。視覚されて。

ここで現れた「作話」も興味深い現象です。
じつはこの作話ですが、何も患者だけに現れるのではありません。
我々の判断や結論づけも、この作話を完全に踏襲していることが様々な実験から証明されています。
自分では意識的且つ理性的に自分の考えや判断を決めているように思っていますが、そうではなく無意識領域の判断をベースにした、作話(誠実な嘘)をついているに過ぎないのです。

おっと話が横にそれてきました。
どこまで話しましたっけ?
あっ、火事の家でしたね。
まだまだこの半側無視には不思議な意味が隠されています。
視覚はされているのに、左側が認識できない半側無視は、なんと心象領域にまで及んでいるのです。
つまり心に思い浮かべる時も、左側が無いんです!

ある患者さんに、自分の部屋を思い浮かべて(!)もらいます。
記憶の中で部屋に入り中の様子を説明してもらうと、右側の部屋の配置は言えますが左側は無いのです。
しかし、ドアの対面にある窓辺に立って振り返ったイメージでその部屋を想像してもらうと、今度は先ほどは無かった左側が出現して(右側になったため)、反対側は無くなってしまうのです。
つまり部屋の中のすべてが記憶されているのに、視点によって左側の配置が消えるのです。

では「左」の概念自身を失っているかと言えばそうではなくて、思い出せる右側の部屋の配置を「左」から順に言ってくださいとお願いすると、間違いなく言えるのです。

これらの半側無視の世界を想像しようとしてもなかなか難しいのですが、当事者の彼らにとっては、何も違和感はないようです。
「我々が認識できる左側」が完全に欠落した世界にも、右と左の概念はあって、その世界が彼らの世界の全てなのですから。

ある患者さんは、毎朝近くのパン屋さんに足を運んでいます。
そのパン屋さんはもちろん右側にあって、家を出て右側に歩いてゆくと、右手にパン屋さんのドアが見えてきて、無事に入店する事が出来ます。
そのパン屋さんでお気に入りのパンを買ったあと、家に帰ろうと玄関を出ると、家とは反対側の右側に歩き始めます。(想像してくださいよ。その情景を)
しばらく歩くとどうも家から遠くなっていることに気付き、振り返り(もちろん右回りです)家に向かいます。
しかし、自分の家には気付くことが出来ずに通り過ぎてしまうのです。(家の玄関は、自分の左側にあるから)
そしてまた、歩いてゆくうちに通り過ぎてしまった事に思い至り、回れ右をして無事家に帰り着くのです。(今度は右側に家があります)

その彼に、なぜまっすぐパン屋から帰ってこれないかを聞くと、不思議な顔で「そりゃ、うっかりさ。」と作話して、「えっ、俺に左側が見えていないって?それは、よくある科学者の思い込みってやつだよ。」

なるほど!

物語の海、揺れる島 /与那原恵 小学館

(97年6月感想文)

変ったノンフィクション集です。
なにが変っているのか・・・・

唐突で申し訳ないのですが、いつも私の念頭にある問いから始めたいと思います。
どうあれば作品及び著作になり得るのか?
失言を恐れずに言えば、「流通」をその属性として持っているかということだと思います。
何を流通させているのか?流通の回路は何か?どの様な流れ方をしているか?等が、作品の性格を決定します。

この本はどうか?
私は初めて知る、ギリギリの境界作品だと思います。
「フェミニズムは何も答えてくれなかった〈オウムの女性信者たち〉」
「モデルの時間〈荒木経惟と過ごした冬の日の午後〉」などは秀逸で、深く感動しました。

本書の文章は、与那原の受容体であり、心のシワそのままなんです。
ブツブツと個人的な疑問をつぶやくような文体は、嫌味を感じさせる一歩手前でとどまり、むしろ襖のこちら側から思わず聞き耳を立てて知らずうちに頷いてしまっているような、一種の快感を感じさせます。
しかもコミュニケーションの残像を結ぶのは、与那原以外には浮かんでこないのです。
しかしそこには、確かに固有の「流通」が存在しています。
そこに流れているのは、人が心に思い浮べるときに生ずる「小さな泡のリズム」なんです。