死なないでいる理由/鷲田清一 小学館

哲学は難しい!
正直、私にはそう感じます。

「哲学は、本当は身近な事なんですよ。幸せってなんだろうとか、あの子が好きだ〜とか、ちょっとコンプレックスに囚われている私ってなんなの?とか、どうやって生きてゆこうとか・・・・」

ほら、やっぱり面倒くさそうじゃないですか、そんな話しはお坊さんの講話に任せたら?

そうでした。哲学の先生は、大体お坊さん達がしていたのです。
昔はそんな問題を、分かりやすい言葉で伝えてくれる人がいて、お坊さんだけではなく職人さんとか、村の老人だとか世話好きのおばさん達の言葉が、すっと胸に届いたものです。
哲学も本来は、考える対象が生活の中の身近なことや「幸せ」とかだったのです。

ところが20世紀に入ると哲学の考える対象が、それらを考える手段、いわゆる「言葉」や「意味」や「記号」や「論理」という媒介自体になってしまいました。
ここで哲学は、一気に分かり辛くなったのです。
「ことば」とはなんだ?ということを、「ことば」という言葉を使わないで、言葉を使いながら説明しなくてはならなくなったのです。

ほらっ、ちょっと嫌になってきますよね。
でも、そんな事を考えなくても、人間は「考えずには生きられない生き物」だから、意識しなくても哲学しながら生きているのです。
だって、失恋したり、深い挫折感に襲われたり、夢も希望も感じられなくなった時に言うじゃないですか。
「死んでやる〜!」とか「生きてゆく気力が無くなった。」とか・・・
恋愛という哲学を生きてゆけなくなった時や、何も考えられなく落ち込んだ時、人は「死」に結び付けて考える珍しい生き物なんです。
「考える」ことと「生」が直結しているのです。

ジャック・アタリという思想家は、人は避けることの出来ない「死の恐怖」から逃れるために、自分を「擬制的に所有」し続けるのだと言っています。
所有する事が死の恐怖かどうか分かりませんが、確かに「自分」を「自分」だと判断するためには、名前とか性別とか記憶とか、それこそ所持品とかを「所有」する作業を繰り返している気がします。
「徳さん」と言う名前を持っている(所有する)のが「私」だと。
人は、何か(名前や自己の記憶など)の所有者であることによって、「だれか」になりえるのです。

でも「持つ」というイメージは、そのものを処分したり、自由に改変したり出来るというイメージも持っています。
それを「自己」に重ねてみると、所有するという事はそれを放棄したり処分したり出来る「権利」を有することで、自分の身体を商品(!)にしたり、臓器提供や、ピアスの穴を開けたりすることの身体加工の問題が、そこには潜んでいるように思います。

「人間は、自分自身の主人であり、また自分自身の身柄とその活動ないしは労働の所有者であるがゆえに、依然として自分自身のうちに所有権の根拠を有している」(ジョン・ロック『市民政府論』)

う〜む。とは言うものの、その一方ではあまりにも「所有すること」や、所有している「モノ」に対して、限りなく無反省のような気がします。
だって、名前にしても身体にしても、「私」というものに必然的に存在しているものでもなく、実体とは切り離される「記号」の自己規定所有物じゃないですか。

それに
「物を「所有」しうるには、すなわちある物に「自分の」という特質を付与し続けることが可能であるためには、そのものが唯一その物であり続けるということに対する判断以前の信頼が、つまりA=Aという同一性に対する信頼が前提となるのである。」(長井真理『内省の構造』)
となれば、その信頼の喪失や違和感が否定しようもなく感じている現代の我々は、どう自己を所有することが出来るのであろうか?
私が、「わたし」のものだという自明性の喪失は、物や世界そのものの同一性の破綻と紛れもなく繋がっているのです。

これは、「世界」や「自分」も必然や固定性もなく、瞬間的な一過性のもので、そのものの普遍的な価値も無い、語られることなんてすぐに流れて行ってしまうということを先験的に知っている事になります。

それって昔で言う「無常観」や「悟りの境地」なんじゃないですか?

でも、悟りが必ずしもハッピーと言うわけでもないし、いつも無常観に漂ってニタニタと笑っているわけにもいきません。
正直に言えば、心の底では自己なんて虚無なんだよって知っている(!)けれど、こんな私ってなんなんだろう?という自己存在根拠への飢えがより一層ひどくなり、下手をすれば自分と他者との境界のバリアを高くして「自己」幻想の砦に立てこもったり、終わり無き自己探求中毒症になったり、社会や他者視線への同化と恐怖に怯えたりもします。

「いいんだよ。あなたは、あなたのままで・・・」
自分での自己規定作業よりも、他者に肯定されることを欲し、他者による「自己存在」の贈与(!)でしか自分の鏡像を見ることが出来なくなっているのも、同じ現在性の問題なのです。

いやはや哲学も難しいけど、現実の方が数段難しいですよ。

「アイデンティティとは、自分が自分に語って聞かせるストーリーである。」(R・D・レイン)

男の更年期/ジェド・ダイアモンド 新潮社

男性も女性も男性・女性ホルモンの両方を持ち、ある年齢になると身体が人生後半に備えてこのホルモン分泌量を変更し始めます。
その時に起こる身体変化が「更年期」で、急激な変化を伴う女性の更年期障害には女性ホルモンであるエストロゲンを補充する療法が注目され、実用化もされています。

近年では男性にも緩慢ではあるけれど同様なホルモンバランスの変化があり、男性の更年期として耳目を集めるようになってきました。
つまり男性ホルモンのテストステロンの減少によって、特徴的な症状が現れてきて、それを「男性の更年期」として理解し始めたのです。

○心身ともに粘りがなく、忘れっぽくなる。
○いらいらや、疲労・不安感に囚われ、人生の喜びや目標を喪失したように感じる。
○セックスへの興味が減退し、性的能力の低下がみられる。
○その他、様々な形での身体能力や臓器機能の低下徴候が見られる。

本書のようなアメリカ的な理解とアプローチには、少し抵抗もあるし考えなくてはならない問題があるようにも思いますが、今現在ほとんど省みられない日本文化での男性更年期理解には有効だと思います。
まずは認識して、先の指標をたてる一助にはこのような読みやすい黒船啓蒙書が必要なのでしょう。
貴方にとっても、私にとっても・・・・

月/アマール・アブダルハミード アーティストハウス

世の中の政治がイスラムを中心に動き始めて久しいと言うのに、そのイスラム文化に接する機会が極端に少ないのは、大いに問題があるように思っていました。
私はイラン映画も好きですし、中東・アフリカ・東南アジア等イスラム文化圏の映画も機会があれば観るようにしていますが、思念の懐の深さや、近代人倫の視点を兼ね持っていることは伝わってましたが、人々の肉声や体感は不明の印象がぬぐえませんでした。

聖俗の諸相を知るには文学や音楽を見知るのが最も手っ取り早いと思うのですが、自分の書棚やCDを見てもイスラム教や古典書物と、中東の伝統音楽とシェブ・マミのCDしかありません。
だからニュースで報道される動向や市井の人々の怒りの表情が、私の中で混乱を起こしていたのです。

本書は、正直ショッキングな内容でもありますが、現実の中で生きている人間の息づかいを感じます。

神の思し召し、社会の中での女性の位置、導師(イマーム)、レズビアン、親族との摩擦、ヴェール、結婚責務、風評、セックス、脳内物質、月経、政府弾圧、近親相姦、長老(シャイフ)、オーガニズム、コーランの集い・・・・

匂いに敏感な青年主人公が、我々を彼らの文化へ連れて行くことを可能にしています。

「尋常でない」「匂い」「女性」「探索」「路地」・・・フムフム・・・
(2002年7月)