夜の鳥/トールモー・ハウゲン 河出書房新社
ヨアキム夜の鳥2/トールモー・ハウゲン 河出書房新社

白状しますと、ここ数年私の中の「世界イメージ」の航路変更がなされているようです。
「世界イメージ」というと、なんだか難しいことを話し始めそうですが、そんな変節はいつも皆自然に行っているのです。

誰かを好きになるとその人のことが頭から離れずに、切ないラブストーリーに共鳴したり、涙もろくなってしまいます。
子どもが生まれると、その子を通してしか世界を見れなくなります。
大病をしたり、身内の死に出くわすと、お金や物よりも、健康や家族で一緒に過ごす時間が本当に貴くなります。

人はその時その時、「その時の自分」を含んだ「世界」を再体験しながら、生きているのです。
どのような「世界」として体感(理解ではなく)しているのか、今この瞬間をどの「自画像」として思い描くことが出来るのか、他者や外部がどんな様相に見えるのか・・・・

ヨアキムのベットの横には洋服ダンスがあって、その洋服ダンスの中には「夜の鳥」が住んでいます。
パパが病気になって家を出て行った時、ママが知らない人のような目で窓の外を眺めている時、学校で皆から嘲られたりした時、「夜の鳥」は、内側から鋭い爪でドアを引っかき、首をしめられたような声を上げ、暗く光る目で扉の隙間から彼を覗くのです。
ヨアキムは、その「夜の鳥」が怖くて、怖くて仕方ありません。
そしてその「夜の鳥」は・・・・

私は、「世界」に「夜の鳥」を住まわせたいのです。

盆栽宇宙/山本順三編、増田茂写真 クレオ

盆栽?
いよいよ徳さんも盆栽世界に入るほど、年をとったのだね、などと思ってはいけません。
ようやく、盆栽の奥の深さに気付かさせて頂いたのです。
誰に?
もちろん、盆栽宇宙にです。

本書は、くどくどと専門的な解説も無く、300点以上の盆栽その一点一点を丁寧な写真で紹介してくれています。
その編集には、盆栽は説明ではないんだ、この存在、立ち姿、調和、鉢との関係、そしてその世界を作り上げる為に細部にこだわり、精魂傾けた持ち主の想いを感じ取って欲しいとの気持ちが伝わります。
でも、観れば観るほど持ち主の陰は背景に遠のき、自然と人工が出会った「奇跡の美」が大きく浮き上がってくるのです。

盆栽の王道である「松柏盆栽」は、十数cmの巨樹です。
もみじや楓など四季変遷を愛でることが出来る雑本盆栽を「葉もの盆栽」と言います。
外界自然の移ろいのなかに、極小な移ろいを体現し、春の芽吹きから紅葉や寒樹まで堪能できるとは・・・

花姿美しい「花もの盆栽」は、日頃花の艶やかさばかりに目がいっていた私にとって、花樹の革命でした。
花が咲けば実がなるのが道理、道理があれば美も咲きます。
「実もの盆栽」は、「樹に宝石がなる」とは編者の言。

石や小鉢に苔むしていたり、共に身を濡らす山野草の「草もの盆栽」。
しっかり抱き合った姿は、クローデルか小路草の趣です。
床飾りや棚飾りの「席飾り」は、3・5・7の奇数飾りが原則だとか・・・奇数は世界数。

盆栽は、「盆」と「栽」の饗宴。
名鉢は、それこそ世界の大舞台なんです。

高校時代に突然我が家の庭に出現した、手作りの盆栽棚。
盆栽は、父の後ろ姿でした。
(97年5月感想文)

「わが言葉は石に刻め」/江口宣

※〔意識は人間か。不死の肉体は言葉をもちえるか。
はたまた辻村脳は、原爆を見たか。〕

この作品で興味を覚えたのは、医学的というか、パーツ化してゆく身体システムと、総体である人間又は個人の間に横たわる軋轢と戸惑いです。
クローン人間や免疫システムや、脳のメカニズムが話題にのぼる度に、その複雑な構造に舌を巻きますが、それを認識する意識はそれをフィードバックし、そのシステムに影響を及ぼしているのでしょうか。
「気」の持ち様が、免疫効果を高めるのは確認されていますが、そのシステムを「知った」人類は、人類の身体システムとどう関係を持っているのでしょうか。

関係があるならば意識は、肉体と分離しては考えられず、脳だけの辻村さんは、唇なき唇を震わせ、8月9日の死出の旅へ脚無き脚半をまき始めるでしょう。
もし無関係ならば、肉体を不用とする意識は、白濁する容器の中に満ちゆき、他者のよる自死(!)「殺してください。殺してください。」と永久に呻き続けます。

死を、意識は認識できるのか?

※〔最後の被爆者は誰か?〕

字義通り、体験者という意味での最後の方は、現実的にはおられるでしょう。
しかし、普遍な被爆の問題があるとすれば、この経験者論から抜け出るしかないように思います。
現在、差別の問題にしても、障害の問題にしても、この経験者論問題が最大の壁の様に感じています。
確かに、当事者でなければ知り得ない重みはあります。
でもそれは、非当事者の重みと同じでなければなりません。
そこに等級があれば、より悲惨な、より重度なものが問題の深刻化を意味するようになります。
文学は、それを越える手段の1つと考えます。

「イエスよ涙をぬぐいたまえ」/江口宣

※〔信仰の必要十分条件〕

広義の意味での「信」の理念は、万人が生きる為に必要とする精神のベクトルの1つである、とすれば足りるかもしれません。
しかしそこには、「生きる為とは?」という問いは、不問としている前提があるのです。
もちろん「生」と「生きる」は、現象と意思という全く違う位相の住人なのです。

宗教は、「信」をどこまで許容できるのか。
宗教は、自らを成立させる為に、非宗教的精神を差異化する運動を、必然として負っています。
科学の進歩、社会の変化、政治力学との関係で常に宗教は自己言及してきました。
奇蹟を信じない千代の信仰。自己内で世界が満ちてしまった鳥越の信仰。ハンカチの発見と耳あての奇蹟に寄るシスター達の信仰。
宗教自身の問い掛けは続く。

「我は何ぞや!」

PS.車椅子の幽霊。上記の意味で幻想化の可能性の必要があるでしょうか。
壁でのボード化する問答、もっと続いてほしかった。美しいシーンだと思います。
(2003年9月)