死んでいる/ジム・クレイス 白水社

私は、死のリアリティを、いつ手放してしまったのだろうか?

ある海岸で、50代の夫婦の死体が発見されました。
いや、言われてみると当然のことなのですが、発見される前に死体はそこにいた(!)のです。
それらの死体は、もう主体的に海鳴りを聞く事は出来ませんが、打ち寄せる波音に身を包まれ、物質としての変化に全てを委ね、生命力にあふれた大小様々な生物に、生命のエネルギーを供給し続けていたのです。

今はお互いに何も言わず、苦悩も不満も希望も語りませんが、その一瞬まで時間は静かに流れ、彼らが出会い、愛を語り、砂を踏みしめながらそれぞれの胸に去来した無形の記憶は確かにあったのです。

そしてまた、残された娘にはその後の時間と彼らへの複雑で深い想いが、変位しながら流れてゆくのです。

妻が講義の中で学生に向かって語っています。

「あなた方は今死んでいくところなんですよ。慣れておきなさい!」

そうです!私は死にゆく途中にいるのです。
(97年5月感想文)

不確かな存在たち—精神科医町澤静夫の記録/常蔭純一 径書房

今月(97年5月)は、精神科医の本を3冊も紹介していますし、それに近い教育関係の本もあります。
これまでにも、この様な偏った紹介がありました。
そこで、今回は少しそれら偏向の理由を書いておこうと思います。

自分の中では、いくつか興味のあるジャンルがあります。
それらの初源が何なのか理由を考えて見ますと、「私は誰」「ここは何処」「今は何時」に由来するようです。
もちろんこれらは単独に成り立っているわけではなく、相互に重複し合っているわけですが、人が前後不覚に落ち入ったり、術後から覚醒した時に問う、基本認識確認の3つの問いなんです。

第1の問いから、文学・哲学・医学・動物行動学等へ・・・・
第2の問いより、歴史、文化人類学、社会学、政治へ・・・・
第3の問いからは、自然科学・物理・宇宙論へと広がってゆきます。

当然ながら、私に全部理解出来る能力があるわけもなく、ただ気になる領域を取り上げると、こんな風になってしまうということです。
どれ1つとっても進んでゆけば全てのジャンルを通ることになるだろうし、そう考えるとこんな区分け自体あまり意味がないようにも思えます。
言葉を返せば、人間が自己確認の思考方法を、任意分類し演繹しているだけとも言えます。

こんな分裂的なアンテナの元で、書店の新刊・新聞・参考文献・図書館でのデーター・知人からの情報から本をピックアップし、大概はまとめて図書館にリクエストして、近くの図書館に無ければ、県内の図書館、九州県内の図書館、国会図書館から取り寄せてもらってます。
リクエストする時に、それらに関する本を数冊〜10数冊まとめてするので、届く時には同じ関連の本が大量に届くことになってしまい、しぜんその月の感想文が、宇宙論に片寄ったり、精神分析になったりしてしまうのです。

自分の理解力の限界から、読みこなせない本も多数生まれるのですが、私の場合そうでもして多数手に取らないと、1冊2冊ではなんとなく分かる程度で満足してしまうし、その本の考えに流されてしまう気がするのです。

読み進むうちに新たな疑問が浮かんでくるので、それらの本の参考文献などから再追加リクエストします。
疑問の関連本を数冊から・・・・・その繰り返しです。

この調子で続けると、どうしても届く本に追われて、ただ単に疑問解消を目的する読書や消化読書などに陥ることもあります。
ただ、本当にその状態が嫌かというと、じつのところそんなページ捲りからも疑問は次から次にも沸いてくるし、新しい発見も多いので、案外ワクワクしているのです。

これは、一種の中毒病だと思っています。
実際に精神分析の分類にも、この様に何らかの知識に飢えをおぼえて、繰り返し繰り返し貪り続けるという病があります。

前置きが長くなりましたが、私が精神分析関連書・精神科医の本を読む1つの理由は、上記の「私は誰」からの関心であります。
もちろん、自分を通してそんな人間の不可解な意識に興味が湧いてくるのです。
またもう一つ切実な理由としては、出来るなら自己治療を、自分を実験材料にして、やってみたいという気持ちがあります。
(アルコール中毒者が、どうして自分は中毒者になったのかをお酒を飲みながら考えるようなものですが・・・)

町澤静夫は、随分前から好んで読んできた人です。
本書は、町澤の理論というよりも町澤の元を訪れる、多重人格、PTSD、拒食症、醜貌恐怖症、セックス嫌悪病、女性恐怖症・・・ボーダーラインの人々の人間模様です。

時代の心が病んでいるとしか思えない現在は、どこにゆこうとしているのか?
1つの模索がここにあります。
(2004年3月)