ジェンダー・トラブル フェミニズムとアイデンティティの攪乱/ジュディス・バトラー竹村和子・訳 青土社

大学時代に、女性解放研究会(うろ覚えで・・・間違っていたらゴメンなさい。)に所属していた人から、

「あなたは、女性差別者だ!しっかり自覚して、総括しなさいよ。」

と、厳しく糾弾されたことがあります。

正直に言いますと、そう言われた時点で、議論の気持ちが一気に萎えてしまったことを覚えています。

あれから二十数年経った今でも、フェミニズムの問題を考えようとすると、その時のトラウマが甦ってきて、シューと気持ちがしぼんでしまうのです。

確かに私の中に、女性を差別していたり、抑圧している意識はあると思います。
現代社会が、まだまだ男性社会であることもありますし、私自身の心の問題もあると思います。
しかし、私が思うに、その差別感は意識よりも、無意識を形成する領域に近いところに根があるように感じるのです。

これは、「私が」と特化するするよりも、もっと広く深い問題なので、薄皮を剥がすように慎重に考えてゆかなければ、ダメなんじゃないかと思うのです。

「ジェンダー」という「社会的性」は、「私が」とか「あなたは」と個別化してしまいがちな求心力に風穴を開け、少し考え易くしてくれました。
自らが作り、且つ作られる「ジェンダー」は、考える余白と思考の後押しをしてくれたように思えたのです。

が、そんな安穏とした女性差別者(私のこと)をいつまでも許してはくれませんでした。
バトラーは、その「ジェンダー」の「女(ウーマン)」規定が、固定化した「女」
「男」を産んでいるのだと、徹底批判します。

「ジェンダー」もダメなのか!では、どうすれば・・・・・

本書を読んで、多くの教示を受けましたし、アイデンティティもガシャガシャと攪乱されました。
また首を傾げたり、疑問の種も頂きました。
そのうちのいくつかを・・・・

あたりまえに思われる「異性愛」は、「同性愛タブー」と「近親姦タブー」によって創られた?

異性愛の「近親姦タブー」は、近親同士の異性愛を禁止するだけではなく、禁止することによってその「欲望」を、より強化して「生産」してゆきます。
「見ちゃダメ」と言われると、「見る」行為が強化されて「見たくてたまらない」欲望として意識されるのと一緒です。
そうやって「異性愛」を文化の鋳型(マトリクス)として規定してゆくというので
す。

さらに個々の中で、異性愛とアイデンティティは、どのような変遷をたどるでしょうか?

人間は、「母」との関係が絶対である時期から「生まれ」ます。
男の子だと、母への近親姦を禁じられるため、異性愛としての性対象を別の「女」に移行させます。
性対象は母からべつの女の人へと移りますが、「性目標」としての「女」は、移動させなくてすみます。
しかし女の子は、母を断念するだけでなく、べつの「女」への移行も「同性愛タ
ブー」によって禁じられ、「性目標」自体を移動させなくてはならないのです。

フロイトによると、根源的な喪失は、失った「悲哀」だけでなく、失ったことすら忘れてなくてはならない「メランコリー」で解決されるしかありません。
「メランコリー」は、失った愛の対象を自らに取り込み、一体化し「体内化」する作用です。

女の子は、母を断念し喪失したことによって、「否定された女性性」を「体内化」
し、自分の属性として身に帯びて「女性性」になるのである。

バトラーが問題化するのは、身体性の「捏造の系譜」です。
しかし、単純に非対称化された「ジェンダー」のフェミニズムに陥ることなく、反復する行為の可能性を指摘しながら、問題提議しているのです。
もちろん、ジェンダーフリーや反ジェンダーフリーなんかの次元とは別の、根源的な試みです。

大学時代に言い詰められた「総括」は、まだ出来ずにいます。
二十数年もだらだらと考えている「セクシュアリティ」は、どこにゆくのでしょう?
批判してくれた彼女は、「総括」しないでいつまでも考え続けると言う私を、赦してくれるだろうか?
でも、いったい何を赦してもらうのだろう?
(2006年3月)