あなたに不利な証拠として/ローリー・リン・ドラモンド 早川ポケットミステリーブックス

極上小説に出会った時、その世界に心奪われて、寝食忘れ読みふける経験が、誰しもあると思います。
もちろん私もありますし、そんな経験をしたくて、読書歴を続けているようなものでもあります。
私の場合、もう一つの過ごし方があって、数ページ読んでは本を閉じ、数日後に本を取り出してまた数ページ読む、そんな読み方をする作品もあります。

自分が気に入った作品に出会うことも、まれになってきた中で、たまにこれはと思うと、ほとんどが前者のように一気に読み込んでしまいます。
まあ、それが普通ですよね。

ただ年に1冊あるか無いかの頻度で、1ヶ月も2ヶ月もリュックに忍ばせて同行する本があるのです。
それらの本は、作品の楽しみだけではなく、現実の世界と作品の世界を「往還する」喜びが感じられる本達です。
書物世界の文体が、静かに「実感の底」に流れ込んでくるのが、この上もなく快感なのです。

本書は、5人の女性警官の話が淡々と語られた、10篇の短編集です。
ある時はその写実的な描写に胸塞がれ、ある時は彼女達の苦悩に目を背けたくなる衝動に駆られ、またある時は感情の波に自分を失いそうにもなります。

小さな支流が最終章に流れて行って本書を閉じた時、ふと彼女達の声を聞いた気がしました。
悲しみを孕んでいるけど、力いっぱい生きている自信に満ちている彼女達の声を・・・・

典子44歳いま、伝えたい 「典子は、今」あれから25年/白井のり子 光文社

『典子は、今』と言えば、私には忘れられない記憶があります。

その映画が上映された年だったのか、その数年後だったのか覚えていないのですが、丁度その頃、私は教育実習生として母校の高校に戻っていたのです。
自信過剰で怠け者の私は、周りの実習生が真面目に取り組んでいる教育課程を尻目に、生徒達とつるんで遊んでいました。

そんなある日、受け持っていたクラスの一人の男子学生が、体操服から腕を抜き、服と胴の間に腕を入れ、ブラブラと袖を揺らし「これ、『典子は、今』!」と言って、笑ったのです。

私は、その後の記憶をほとんど憶えていないほど怒りに駆られ、その学生を叱っていました。
今でも、その時の光景が目に浮かぶと、どす黒い怒りが湧き起こってきます。

それまでへらへらと生徒に接していた私は、その日を境に生徒との距離が変わりました。
生徒達の方でもその話が伝わったのか、普通の実習生に対するような態度になりました。

正直に言うと、その時私はどうしたら良かったのか、未だに明確な答えを見つけ出せずにいます。

その生徒がどんな気持ちで言ったのか分かりませんが、典子さんや腕の無い人を、腕が無い様として嘲笑することは、許されない思います。

しかし、あの時私は怒りのまま、彼にぶつけていました。
その結果、彼やその周りの子達は、その後「障害」や「障害者」を触れていはいけない「タブー」にしてしまったのではないか、タブーにすることによって、「障害」「障害者」について「考える」という位置を、私は彼らから奪い取ってしまったのではないだろうか?と考えてしまうのです。

また、私の中で「自分外」の人や世界を、嘲笑の対象にすることはあったし、これからも何気なく傷つけることはあると思うのです。
そんな私が、偉そうに正論ぶって、人に何を言うのだろうという思いもあります。
かと言って、人はそんなものだと開き直って、人を傷つけてしまうことに鈍感にはなりたくないとも思っているのです。

人はそんなものだけど、なぜそうなのか?そんなものならどうしようもないのか?鈍感になりたくないと言いながら、私は何をしているのか?頭で考えることばかりで、実際の人達とどう関係を結ぶのか?結局、自分の外に「障害」を置いて考えている振りをしているだけではないのか?私は、典子さんの代弁者になりえるとでも思っているのか?そんな考えを抱く事が傲慢だと思うのです、と言う事で、免罪符を得たつもりになり、自己卑下して問題と向き合うことから逃げているのではないか?・・・・
その日から、私の中で「お友達先生」になることなんか、すっ飛んでしまったのです。

そうして未だに答えを見つけられずにいる私に、当の「典子」さんから声が届きました。

「典子」さんは、「のり子」さんとなって!
(なぜ「のり子」と名乗っているのか?その理由を、是非本書で読んでください。)
あの生徒と『典子は、今』『典子44歳いま、伝えたい』について話をしたいと、無性に思っています。
(2006年6月)