極刑 死刑をめぐる一法律家の思索/スコット・トゥロー 岩波書店
刑法から日本をみる/前田雅英・藤森研 東京大学出版会
ポストモダンの憲法学?/棟居快行 「書斎の窓」1997年1・2月号
修復的司法とは何か 応報から関係修復へ/ハワード・ゼア西村春夫、細井洋子、高橋則夫・監訳 新泉社
刑法三十九条は削除せよ! 是か非か/呉智英、佐藤幹夫・共編著 洋泉社新書
犯罪報道の犯罪/浅野健一 学陽書房
犯罪被害者遺族 トラウマとサポート/小西聖子・編著 東京書籍

スコット・トゥローの作品は、『推定無罪』を読んですっかりはまり、その後『立証責任』『有罪答弁』『われらが父たちの掟』と読み継いできました。
しかし、作品が出るにしたがってサスペンス色が薄くなり、法律に関わる者の内省と文学性が色濃くなって、気にはなっていたのですが、遠ざかっていました。

もちろん現職の法律家だとは知っていましたが、このような形でトゥローの書物を手に取り、何日も考え込んでしまうとは、思いもよりませんでした。

近年の信じられないような犯罪の多発、それに共通理念で成り立つ集合体の変容(国家や地域社会、級友関係、家族など)に対して、はっきりとした方向性が見出せず、無形な不安が強く募るばかりでした。

それに呼応するように導入される裁判員制度、国会で取り上げられる冗談のような
様々な法律論議、「愛国心」や教育委員会の締め付け、滅茶苦茶な歳出項目や金額、受益者負担の名の元に絞り上げる「生かさぬよう年貢」取立て・・・・

法律というか法治国家というか、ルールを思い定めて生きていることを、その「宗教性」も含めてどこかで自分なりに考えていかないと、鈍感な信者であるということだけで、とんでもないところに連れてゆかれてしまう気がしています。

死刑論議は、様々な局面で心を揺さぶります。
残虐な事件を知った時や被害者と被害者の家族の心情を想像した時、犯人への憎悪が沸き起こり、命をもって償いさせてやる!と、握る拳に力が入ります。

人の命を奪うことが究極の「悪」であるならば、人間が集団化しているに過ぎない
「国家」も、人を殺せないのではないか?
それとも、殺人は「解釈」可能な「悪」なのか?
「なぜ人を殺してはいけないのですか?」と問うた少年に、目くじら立てて反論している人達の共通理念で成り立つ国家が、人を殺しています。

被害者や家族が抱く「復讐」的要素があることで死刑制度に反対するならば、復讐的要素を排除した「罰」を想定できるのか?
また、我々は犯人への「報復の気持ち」を、被害者や家族が当然抱くであろう「憎
悪」に重ねあわせ、肩代わりさせているに過ぎないのではないか?

そもそも刑罰とは何なのか?刑罰の目的は?

人間が持っている「悪」の要素をどう捉えるのか?
国家が持っている「悪」の要素をどう捉えるのか?
人間が行う「悪」を罰する国家の「悪」は、「善」なのか?
国家が行う「悪」を罰する人間の「善」は、ありえるのか?公平なのか?

加害者と被害者の命の価値は、同じなのか?
「同じ」「違う」
その回答は、本当か?本気でそう思うのか?
選ばなかった回答に、真理は一片も無いと思うのか?

私たちは、国家にどれくらいの権限を与えたら良いのか?
家族や自身の命を奪う権限を、国家に預けるのか?
また、家族や自身の命を他者に奪われた時、その恨みを国家が晴らしてくれるのか?誰なら恨みを託せるのか?

死刑制度容認者は、反対者を偽善者と蔑み、反対者は、容認者を非知的な性悪説者と蔑む。
容認者は反対者に、お前の家族が殺されても加害者を許すのかと責め、反対者は容認者を、誤審や冤罪の多さを示しながら、誤審によって奪われる命があなた自身であったりあなたの家族でも、仕方ないと諦められるのかと責めます。

誤審による無実の人間は、生きている限り無実を証明できる可能性があるが、死者には後の誤審判明があったとしても、感涙を流すことは許されません。
かつての殺人犯が、恩赦・特赦で社会に復帰して、第二の殺人を犯した時、出所後に殺された被害者の命を、もし死刑があればと防げた可能性を排除して考える事が出来るのか?

予防接種の副作用で奪われる子どもの命を想定して、我々は予防接種制度を受けて入れています。
タバコやアルコール、医療、交通機関、競争社会・・・・みな命のコストを許容してのシステムです。
それと同じように誤審で奪われる無実の人間の命を想定して、死刑制度を受け入れるべきなのだろうか?
違うのなら、予防接種によって命を落とした子どもと、無実で死刑に処せられる人間の命のどこに違いの理由を見つけるのか?

死刑制度でよく言われる「犯罪抑止力」はあるのか?

様々なデータがありますが、アメリカの死刑制度を採用している州と採用していない州の殺人率を比較すると、死刑を行っている州の殺人率が、死刑制度が無い州よりも高いという事実があります。
過去10年間の集計でも、死刑制度を採用していない州の合算と採用している州の合算を比較すると、殺人率は常に採用している州の方が高く、年々その差は広がってゆく傾向にあります。
むしろ「残忍化効果」があり、州民が死刑によって「残忍」感を維持・高めるため、殺人事件を引き寄せるという説まであります。

社会科学のコスト論は、現在の社会制度検証の必要不可欠要素ですので、当然ながら死刑制度のコスト率も検証されています。
一見すると、死刑執行後には0になってしまうコストと、終身刑で服役する間中にかかるコストを比べると、死刑制度の方がコストは低いように思われます。
しかし、実際には死刑囚に与えている特別な環境、死刑制度を維持するためのコストは、「特別」が故に膨大で、アメリカでは殺人犯を生かしておくよりも「死刑した方がコストがかかる」というのが、一致した見解のようです。
インディアナ州の2003年の報告では、死刑判決のコストは、仮釈放なしの終身刑の1・3倍であると結論付けられています。

死刑制度が被害者やその家族の気持ちを第一に考えて実行されるのなら、同じ殺人が遺族の判断で死刑であったり、そうでなかったりの違いが出てきてしまいます。
連続殺人だった場合の遺族の複数の希望を、どう実現するのか?
また遺族第一主義は、遺族の気持ちが事件結果を決定するので、事件の多様性が鑑みられず、事件の区分を可能にする基軸を作る事が出来なくなってします。

そもそもなぜ司法という国家の機能が、個人的な被害に対して断罪権を持っているのだろうか?
なぜ我々は、国家にその決定を委ねているのだろうか?
国家の名において判決されると言うことは、私の名、あなたの名、共同体全員の連名によってなされていることと同義です。
政治家達への手抜き判決も、腰の引けたアメリカ優遇判決も、政府や大企業側を守って個人に更なる涙を流させる判決も、私の名前とあなたの名前の連名なのです。

個人の命が非情な手段によって奪われた時、残された遺族の計り知れない喪失感と激怒感の地平に立つのではなく、「社会全体」から「被害者の持っている可能性」を奪い取られた「全員の被害」と考えます。
よって、我々全員の連名で判決がなされるのです。
遺族の人達の悲しみが、我々全員の気持ちと比べようもなく深く大きなものであることは自明ですが、社会の総体として考えた時、遺族という少数者が、多数や全員を代弁する権限を持てないのが、民主主義の鉄則でもあるのです。

近年クローズアップされてきた、遺族に対する情報公開とか哀しみに対するケアのシステムは、近代司法制度の中では用意されているはずが無いのです。
むしろ、その立場を排除することによって、「司法制度」を作り上げてきたのです。
しかし、司法制度の目的が「全員の幸福を目指す」であるならば、被害者の幸福を留意したシステムを、全員の幸福感の必然として用意することは、可能な気がします。もちろん「全員」の中には、「加害者」も「加害者の家族」も含まれるのです。

「法律」というルールを「妄信して」集っているのが、「国家」の一面であると思います。
「信じている」という特異点から生まれた「法律」であり、「国家」なのです。
「主権在民(国民主権)」は、看板の装飾ではなく、我々の首をじわりと締め上げている「国家」と交わした「証文念書」です。

「国家」は、言います。

「おいらが決めたんじゃないよ、決めたのは「あんた」だし、今までも「あんた」の名前で決めてきたじゃないか!
知らんかった?そう、知らなかったのかもしれないね。
でも、「あんた」は「信じて」いたんだろ。「日本」や「法律」や「家族」を!
そして、なにより「あんた」自身を!」
(2006年7月)