レクイエム/ホースト・ファース他編集英社

ヴェトナム、カンボジア、ラオスの戦場で死亡し、また行方不明になった135人のカメラマンの遺作集を今、見終えた。

こうやって白紙にボールペンのしみを刻み込ませている僕や、人の往来。
信号が変わると同時に、エンジンを吹き上げ走り去る自動車の列。
薄曇りの下、春にはなりきれない上空の風を受け、羽を震わせながら飛びゆく鳥達の、ガラスのような眼に写っているこの現実。
現実、現実と一生懸命に書き止めておかないと何か不安な気持ちになって、お互いに顔を寄せ合い、今晩のおかずを相談している。

どこの街角にも、転がっているのは犬の糞と、誰かが垂らした唾の跡ばかり。息断える寸前の少女を抱きかかえ、泣き叫んでいる母親の姿は見当らない。

食後にシーシーといわせながら爪楊枝で歯間をこじ開け、
親しげな路上キャッチセールマンの横を、
近寄るでなく離れるでない距離を見計ることに、
全神経を使い果している。

充足しているのだ。僕らは。
満足している。この想像力で。
仲良く噂話に花を咲かせる自由がある。
そしてなによりも、この禁断の書を葬り去る権力がある。
封印せよ。危険な書物が呻き声を上げている。
焚きくべよ。その痕跡から沸き立つ臭いさえも。

流れ込んでくるぞ。
死者達のあざ笑い集いて、足踏み鳴らし、腕振り下ろす音が。
聞き取るのだ。
赤子の歪んだ唇から漏れ出る、悲鳴に似た泣き声を。
彼らは、必ずやってくる。
悲しみと痛みに流された涙と、
荒れた大地に染み込んだ多くの血を奪い返しに。

「徳さん・・・」の読者よりの感想に応えて

宮崎映画について、僕なりの考えを少し。僕は宮崎映画信望者ではありませんが、失敗・成功ある中で、やはり優れた映画作家であることは疑いようもないように思います。
僕が宮崎駿を高く評価するのは、巷に言われているような宮崎の自然と人間との関係とか、エコノミーの部分とかでは全然なくて、言葉の意味や描写の外にある非言語的世界を表現し得る、数少ない作家であるという点です。
僕ら大人(意味や考えの世界住人)は、本を読んだり、絵を観たり、音楽を聴いたりすること、つまり、外部からの情報を与えられると、その情報から意味を探ったり、理由を付けたりする癖がついています。
これは私達個人の問題であると同時に、社会の仕組みであるが故に、自然にその様な処理を行なってしまうのだと思います。その考えに上手に適応するのが、大人になるということと同義なのかも知れません。
宮崎映画で僕が感じることは、この意味外部の印象です。だからどこが良いの?と聞かれると、言葉に置き換えることができません。言葉に変換するということは、意味探求の矛盾に落ち入ってしまいますから。
それじゃ話にも何にもならないよ、と言われれば、その通りです。
しかし、コミュニケーションが不可能かと言われれば、そうではないように思います。「いや〜よかったね。あのシーン凄かったね。」と言い合ったり、「もののけの歌」を口ずさんだり、映画パンフを眺め合ったり、それぞれの印象を語り合ったりすることで、自分の言語外の世界が刺激されたり、共鳴したりするのではないでしょうか。
意味の前で立ち止まって考えたり、映画世界を理由付けたりしないで(もちろん、それも映画の楽しみ方の1つですが)空飛ぶ浮遊感に心を遊ばせてみるのも良いように思います。
宮崎映画の最高の鑑賞者は、やはり子どもたちのようです。
5才の我が子は、怖がったり身を乗り出したりしながらも、3時間「森の精」になり切っていました

〈傷つきやすい子ども〉という神話 〜トラウマを超えて〜/ウルズラ・ヌーバー岩波書店

やはり、出てきました反トラウマ論。僕はホッと安心の反AC(アダルト・チルドレン)論。
阪神大震災、地下鉄サリン事件以降いっきに出てきた、PTSD(心的外傷後ストレス障害)、児童虐待による多重人格などの心的障害など、子どもや人に多大なる影響を及ぼして重篤な障害を残す心理モデルへの強烈な反論です。
確かに子どもの時期、又は重大な事件の後に、人は心的なパニックに陥り、無意識層において封印、抑圧などのシステム始動が起こることは確かの様に思います。そしてその克服の為に、ある人にはカウンセリング、精神分析などが有効であることも確かのようです。科学の常で、その結果を踏まえ還元主義的に生みだされたのがフロイト理論であり、ユングであり、この、アダルト・チルドレン、トラウマ理論だと思います。
人間は幻想の動物ですから、自分のマイナスな情況を脱出するために、ある幻想を利用するのは仕方の無いことだし、幸せなら、まあ良いのではないでしょうか。問題は、この幻想の持つ意味が過大になったときです。人が様々な幻想の間を行き来する「自由度」が残っているのなら良いのですが、特定の幻想の文法内でしか世界を観れなくなると、それは大きな問題だと思います。
宗教や、政治体制、差別意識など、大いなる幻想物語が世界を闊歩しています。
僕らはその大きな物語で、自分や世界を語ることが過ちであることに気付きました。自分にとって、心嬉しい小さな物語をいっぱいポケットにつめて、様々な人々と出会うことにささやかな喜びを見出だしています。
近年、トラウマやアダルト・チルドレンの名前があっちこっちで聞かれ、僕は少し不安になっていました。子どもの世界をきちんと認めてあげて、親や大人であるという「権力」を行使することに反省する機会になるなら、この幻想は好ましいし、皆に知ってもらいたいと思っていました。
しかし、誰でも彼でもカウンセリングを受け、全て〈子ども時代〉の物語に原因を探し、現在を決定してしまうのには疑問です。ブームになってくると、その構図に当てはまらない人々が、多くその幻想にからめとられる危険性が増してきます。だからこの様に反AC論の本が出版されることは、僕はバランスからいって歓迎します。ただ内容においては、かなり強引な例や、強硬な反論口調が気になりはしますが、この本を機会に、反AC論の科学論争が起こってくれたらいいな、と心から思います。実際に悲しみの大地にひれ伏している人がいるかぎり、あらゆる幻想を使ってでも、救いあるものにしていってほしいと思います。
僕がトラウマ理論に触れるきっかけとなった、アリス・ミラーの「魂の殺人」も、ぜひ読んでみてください。

11番目の戒律上・下/アレシア・スウェージーアリアドネ企画

アメリカP&G社の告発本である。
P&G社とは日本でもなじみの深いパンパースの世界企業であるが、パンパースだったら我が子も使ったんじゃないか思うけど、あの肌に優しく、高吸収性、保水力で有名なパンパース。
そのパンパースを作っているP&G社の実態とは?
PL訴訟での恐喝、暴力、レイプ。社内の男女差別や人種差別。情報統制に環境破壊。しかも商品による多数の死者!!ほとんどやくざかフィクションの悪徳企業そのままである。
始めはまあ現代企業、本音はそんなところだろうと、すり込まれてしまった傍観と達観(無知の別名)から、グリシャムの本や映画を見る感じで読み進めていったが「えー本当かよ!ウソやろー」と、寒々とした気分に支配されてしまいました。
そんな専制をしかれた中で生まれた商品には、少なくとも42名の女性が毒素性ショック症候群で命を落とした生理用品や、死者が出て問題化した後にも同じ物質を使ってのパンパース製造。当然ながら子どもの被害が続出してきて、現在も膨大な数の裁判が争われています。その他には、歯が茶色になる歯磨き粉とか、経済性をうたった溶けなくて用をなさない石鹸とか、なぜ計画段階でボツにならなかったのかと考えてしまう製品も多数あります。
考え得るかぎりの管理システムはあっても、他人のことを自分の考えで意見する雰囲気が欠如していたのだろうと、どこかよそ事ではない、身近なシステムを思い浮べてしまいました。
犬が転んでも訴訟ざたになる米国でベストセラーになった本書は、P&G社から訴えられませんでした。
どうやら、本当らしい。

ループ/鈴木光司角川書店

痛快です。スリルもあるし、最新科学知識満載。
本当にエンターテイメント的読み物です。
内容については触れることが出来ません。と言うのもそこから遺伝子がひも解かれる様に、スルスルとこの小説が読み解かれてしまうからです。
かといってトリック2、3重ぐらいの単純構造でもなく、生命の謎が折り畳まれプログラムされた、DNA塩基の複雑怪奇な摩訶不思議世界?
でもでも五里霧中で不明世界に足を踏み込んで、わけ分からなくなるとも違い、歩みを進めた後には足跡が確かに残っているくらい、堅実な論理性を保っている遊戯世界です。
『リング』『らせん』『ループ』。必ずこの順番で読んでみて下さい。3冊出版されていますが、これは紛れもなく3冊で1つの話です。
このごろ面白い本を何か読んだ?と聞かれると、僕はこう答えています。
「『リング』、『らせん』、『ループ』です。」
ラ行は、面白い。

知った気でいるあなたのための構造主義方法論入門/高田明典夏目書房

この本を他人に読まれるということは、僕がいかに知った気であったかということを知られてしまうことになるので、コソコソと紹介します。
出来れば皆に知らせないで、今までの感想文での口調を知らずうちに修正し反古にしてゆけたら、今迄の対面も保てるかなと思いますが、まあ底の知れた感想文、独断で始まった行為は独断の反省をはじめから含んでおり、反省の表明がすなわち独断であるとも言えるわけです。
兎に角今迄「徳さん感想文」で問うていた「〜て何でしょう。」「〜は何故なんだ。」の質問形態自体が、完全に無意味であると葬り去られてしまいました。「そんなこと分からないに決まっているじゃん。」という感覚的反論で無意味とするのではなく、命題としてその「問い形態」は無意味であると証明されました。
「Aは何だ?」「Aは何故だ?」という問いは「AはBから生じる」又は「AはBだ」という内容を含んでいます。しかし、これは検証できません。「人がモノを食べるのは何故だ?」は食欲があるからか、生命維持の目的意識があるからか、脳神経の刺激反応なのか、習慣なのか、自然淘汰の結果なのか等みな確からしいけど本当は何なの?
構造主義は始めからこの問いを放棄します。そしてこの問いは全て「Aになるにはどうしたら良いか?」という問いに変換されると考えます。「腹が減る状態はどうなれば、その状態になるのか?」これは一つ一つ検証することが可能です。そしてそれはとりもなおさず腹が減ることと、要因と考えるものとの「関係」を考えてゆくことなんです。
構造主義とは、そのもの自体を考えるのではないのです。「ぼくって何?」「性って何なんだ?」「このコップは?」と問いかけたり、自体を探ったりしません。
構造主義の対象は「関係」なんです。そして「関係」とは「構造」であり、関係があるから様々なものがある(命名され分類されている)と考えます。
構造主義は哲学ではありません。方法論なんです。しかもまっとうな科学の方法論をその立場とし「予測と制御」をその目的とします。
詳しくは本書を読んでもらうとして、内容は分かり易く「ノイズ君」が素朴な疑問を突き付けてくれるので、読みながら初心者の疑問を解いてくれるのには大変ありがたいです。
巻末の付録①〜⑤は少し専門的ですが、ゆっくり読んでみると驚くべき解釈が立ち現れてきます。僕は新聞広告の裏に式を書き写しながらアレー!エー!いやーすごいなーと声を上げてしまいました。

『武蔵野夫人』/大岡昇平新潮文庫ほか

(徳さん)

作品の全般を通して武蔵野の風景が、近遠を行きつしながら描かれていて、僕らは、そんな具体的な情景を思い浮べながら読み進めてゆくが、重要なのはその自然の複雑な起伏、凸凹、大小・多少という総体のイメージである。同時に、登場人物たちの血族としての絡み、身分の昇降、「はけ」を出ては帰り(戦争、旅行…)全てが読者のこの印象につながります。
これは、簡単に言えば、心の襞のイメージである。様々な言葉で飾り、あーだこーだと言ってその言葉の意味を探ることも可能だが、全体を通して唯一手に残るのは、複雑怪奇であろう心のイメージです。僕らはその襞を辿るように、うねうねと登ったり下ったり、遠目に富士を眺め見て、その富士の角度を変えたり旋回したりします。分かり易くするために水を配して、恋人たちにその「恋=水」をたどらせる作品構成を用意します。湧き水に見入っては恋の確認をし、村山貯水池での荒れ狂う水頭とはじけ飛沫する「心」、最後は白濁する水を飲んで道子は死んでゆく。
この構図を基本に、風景や道具を見て楽しむことも自由だ。しかし、ストーリーとして人物達の動き、変化などはステレオタイプ的でおもしろくない。(最後の数頁を除いて)第三者的視点をところどころ出している文体も失敗している。しかし、…
興味をおぼえたこととしていくつか。
耳を噛む癖が気になって道子は“生き始める”。つまり、耳(言説)に気付いてその外部「語り得ぬ世界=恋」探しの旅に出るのです。他の「耳」の言葉の出ている箇所に注目してみると、「耳のかたち」「涙の干いた跡が目尻から耳まで引いていた」などがあり、文の前後からこの基本構図が読み取れます。ついに道子は「語り得ぬ世界=恋」の確認に辿り着くが、それを「誓い=言説=耳」にしてしまう。彼女は、「語り得ぬ」という「言葉」に置き換えるという失敗を犯してしまうのだ。
意識を失って道子は、「うわごと=言説」でその世界を収めようとするが、その矛盾は悲劇の結末以外に無い。道子は服薬の危機は脱しても、生きてはならない運命にあるのです。
「道子の試みが未遂に終わらなかったのは純然たる事故であった。事故によらなければ悲劇は起こらない。それが20世紀である。」
これには2つの意味があります。
前記の道子の死は、当然ながら訪れなければならない理由があった。それは言語外部に気付いた20世紀の必然だからだ。
もう1点は、僕らの死生自身が、それのみでは意味を失ってしまったこと。戦争や自殺などの理路ある死は、もはや何の価値もないし悲劇ですら無い。
そこで大岡の問いが生まれる。
じゃあ戦争で死んでいった兵士達の死は何なのか。
「戦争に行ったからって何が偉いの…」道子に言わしめる。確かに偉くも何もない。そんなことは分かっているが…この言葉で小説は破綻し始める。
しかし大岡は書かずにはいられないのだ。20世紀・言説もへちまもない、戦場をみてきた勉は、もはや怪物として生きるほかは無い。
『武蔵野夫人』という作品をあえて崩壊せざるをえなかった兵士大岡は、もはや無駄かもしれない怪物を世界に放ち、恐れを抱かせる試みを始動しようとする。僕はこの壊れた数頁に熱く感動します。

(辻和俊)

どの登場人物も、各々の道徳律を採りつつ、結果としては自分の好きにしている。道徳律も含めて、考えの核を持っている。しかし、本人はそのことに気付いてはいない。そして、その核を象徴するのが「はけ」だろう。「はけ」を愛そうが疎ましく思おうが、「はけ」から逃れられない。
深く、水の関わる小説だった。道子が勉への気持ちを恋と自覚するとき、関係を持つとき、そして、道子の死の時も。形は色さまざまであるけれど、水がついてまわる。心の動きを表しているのかしらん。
あまり、気持ちのいい小説ではない。人の悪い所をそのまま記してゆく仕方はレポートを読んでいるようだ。話しそのものは、ちょっとありきたりかなという気がしてつまらないとこもある。時たま、作者が語る仕方は、あまりうまくいっていないのじゃないか。これのせいでおさまりが悪い。なければ、もうすこしよかったはず。だけど「事故によらなければ…」はよかった。これがなければ、スカである。情のかけらもないような文体は、それだけにエゴイズムをきわだたせているようで読んでいやな気持ちになるけど、よろしいと思う。人の心理を観察するような文は、「私」が「私」について(「私」は辻某のことではなくて)そのように書けないのを思うと、うんざりする。夢を見ている自分を、起きて観察できぬように、我々の誰一人も、自身の人生をその外から見られないことを、ありありと見せつけられて、この種の書き方の是非は別にして、私は、つらくなってしまう。

(肋屋雁作)

越境するテクスト
テクストは中央線沿いの小さな高み「はけ」の地形の説明から始まる。「はけ」とは、近くを流れる野川の上流の窪地を意味する。丘と窪地と川。この非常に換喩的な書き出しは、テクストの性格を決定付けている。
第一章は、テクストの云わば住人たちの紹介がなされる。宮地、道子、秋山、大野、富子と、各登場人物の経歴が語られ、しかも、その中に登場したある人物がピックアップされ、またそこから経歴が語られるという形式をとっていることで、たえまない時間的往復が行なわれる。しかし、彼らは隣接してはいるが、互いの欲望が平行に行き過ぎる稀薄な関係性でしかない。それは恰も裂け目の右と左で同じ時間を過ごしていながらも、決して同じ地層で交わることのない断層を思わせる。
断層面で交通を生むことのない地層も、最も新しい層、否、これから層(=歴史)を形成していく「ゼロ層」とも云うべき地表において一つに結び合わされる。こうして「断層」から「地表」への飛躍が行なわれ、物語空間が立体に浮かび上がってくるのが第二章である。その契機となるのが、荻野長作の次男・健二に関する事件である。何故強盗まがいの行動を起こしたのかはっきりとしないまま彼は事故死する。彼の死は謎を残したばかりではなく、テクストに揺さぶりをかけた。そして「健二の死」という登場人物たちにとっての共通項によって、健二を中心に彼らを結びつけることになるのだ。
しかし、既に舞台を去った健二は古層の一つに追いやられ、テクストの地表には不在である。この「空虚な中心」を埋めるべく登場してくるのが、健二の死ぬ数ヵ月前にビルマから復員してきた勉である。
勉は秋山の家に住まわせてもらうことになるのだが、富子の娘、雪子の家庭教師として大野の家へも出入りするようになる。又、彼は戦地で身に付けた習慣から周辺の地勢を調べて歩いたりと、武蔵野一帯を動きまわる。これは勉が登場人物達の間を移動してまわる「テクスト越境者」であることも関係深い。実際、しばしば話者として登場するのは勉だけなのである。
さて、『武蔵野夫人』は野川や村山貯水池など、水際で展開されている。野川は自然の流れであるが、村山貯水池は人工的に作られたものである。さらに第十三章に出てくるように、村山貯水池からひかれ、東京都民の家庭に伸びる水道管の水がある。いわば、前者は半人工、後者は人工の水といえよう。勉と道子が関係を持つのは村山貯水池、即ち半人工の水際にあるホテルであった。これは一体どういうことなのか。恋ヶ窪から発した野川が場面でないのはどういうことなのか。あるいは流水と貯め水という質の差なのか。いずれにしてもこのテクストにとって水というものが大きな役割を果たしている。
いろんな読みができそうなテクストであるというのが、読後の僕の感想だ。ここでは詳しく書かなかったが、秋山が貧農の出身で、大野が商家の出身であるといった階級的側面、大野の会社の経営悪化や宮地家の財産の相続権といった金銭的側面からも面白い読みができるのではないだろうか。
事故によらなければ悲劇が起こらない、それが二十世紀である。(第十四章心)

文藝春秋「少年A犯罪の全貌」98・3月号

問題になっている少年Aの調書を読んだ。
気楽に書ける話題でもなく、気が重くなること一頻りだし、不安定ではあるが、立場を表明した上で、今後の問題を考えたり、反省したりしたいと思う。文春記事で大きな問題は、公益性の多少による情報の公開と、事件をどう考えるかの2点だと思う。当然ながらこの2点が絡み合っているので、問題は複雑になっている。

僕の結論から言うと、情報の公開性はもっと高めるべきである。そして、今回の記事は載せるべきではない、になる。調書の前に、立花隆が掲載にあたっての正当性を述べている。それによると、事件が社会的に無視できず、国民全ての問題に関わると考えられる時、公益性が優先され、その情報は公開されるべきであるとの主旨。当然ながら少年法の理念は尊重しながら、情報の事実を確認した上で、となっている。基本的には僕もそう考えます。では何故立花氏はGOで、僕はNOなのか。実はここにこの問題の最大の困難があります。
公益性の優先度を誰が判断するのか、公開されるべき情報とは何なのか。公益、国民等の概念の総意とは?

具体的に今回の調書で考えてみましょう。この調書を読むと、殺害情況が冷静に、しかも坦々と語られています。書かれているこの文体は、少年の文体ではないのですが(検事及び調書の文体である)読むと少年が迷いもない真直ぐな目で、口元は自嘲気味に笑みでも浮かべているかの様な印象を与えるぐらい冷徹です。そして残酷です。語られている内容は事実に限りなく近いのかもしれませんが、語られ方は事実を隠蔽する何ものでもありません。そしてその隠されたものが、本当は知らなければならない情報なのです。
僕も含めて、この調書を読んだ大多数の人は、少年への憎悪と特異性(自分に関係ねえや)を増すだけでしょう。これは、この事件の最悪の受けとめられ方です。多くの人が読んで問題を考える機会にすべき情報のされ方とは思いません。
混同してはならないのは、調書とは何かです。調書とは、裁判で事実を確認し、被告人の将来を判断するための資料なのです。少年の置かれた現代の問題や、国民全てが考えてゆかなければならない問題として考えられた資料ではないのです。そういう意味では、調書は情報の一部です。

では調書の全面公開はだめなのか。違います。今回の調書においても、少年を取りまく環境、心情発露、学校、親、人間、世界との関係を考えている箇所などは公開されるべき情報であると思います。(個人の匿名や人権への配慮の上で)また、調書も各種あって家裁調査官による調書などがあり、殺害の情報中心の調書だけが全貌として情報を流されるのはおかしいと考えます。
殺害がどんな手口で、どんな順番でどんな風に進行したのか、これを知ることがこの事件を知って、自分の、そして現代の問題として考えることなのでしょうか?
そして何よりも、調書で語る少年の親や、被害者の親のことを考えると、正直に言って胸の潰れる思いです。いいや、こんなヒューマンな言葉で言うのは止めます。親達の人権を完全に無視した犯罪であると思います。

彼らの個の尊厳を認めない公益性など僕は認めません。
情報の特権化された専用は、許されるべきでもなく、裁判所や警察・政府・マスコミもその例に漏れません。はっきりとした公開のラインを引くには、それこそ多くの問題があって難しいと思うし、ケース・バイ・ケースであるとも言えます。しかし原則としては、限りなく情報は公開する。ただし、公益性の名の基に個人の悲しみを踏みにじる事は許さない。これが僕の基本です。
今回の少年Aの調書を考えてみると、現在の過剰反応しているマスコミ情況のなかでは、親の悲しみを増すことはあっても、現在の問題として冷静に考える資料には成りえないのではないかと考えます。調書の中での、殺害の手順は非公開、少年の考え、学校環境等は公開、同時に、他のこれに類する調書も公開する。十数年の後に、残りの資料も公開して手続きを取ることによって、その情報を知ることが出来るシステムをつくるべきだと考えます。

最後にその制度としての原案を記しておきます。先に書いたように、個人の人権を最大限に考慮した地点で、第3者による情報公開の第1次選択を行なって、可能な限り公開します。次にケースによって数年から数十年後に、残りの情報も全て公開します。ここで第1次公開における選択の是非を判断して、現行の第1次公開にフィードバックする。当然ながら、討議・選択過程も公開します。この様な制度の上でないと、事件の度に公益性とプライベイトの問題が感情的に叫ばれ、単に好奇の目に曝された、加害者・被害者関係の人々の無念の涙が流されるだけです。
常に可変的で、判断と選択は、限りなく公開された情報において行なう。そんな制度であるべきだと考えます。

この問題については、反論がある人が多いのではないでしょうか。共に真剣に考えることのみが、この事件の唯一の救いです。多くの返信を求めます。

現代思想の冒険者たち19 クワイン{ホーリズムの哲学}/講談社

僕は、偉そうな哲学者が知たり顔でなにかを言ったり、政治家連中がよくも白々と「国民の為に…」などと言っているのを聞いて、思わず文句を言ってしまう。僕は、俺が言っていることが正しいのだ、否、控えめ目に言っても、ほとんどの人が心の中ではこんなに感じているはずだと、確信している。
その様に判断している根拠は何だろう。その意見に到達するまでに、自分の中での「真」だと思われる「考え=命題」を繋ぎ合わせ、積み上げ、発言する意見を作り上げる。こんな風に書くと妙に理屈っぽく感じるが、よく考えてみると、どうもその様な気がする。ものを考えるには、立脚点が必要だと考えるから。
「他人の物を盗ってはいけません。」「1+1=2」「死んでいない人間はみんな生きている。」「夢屋は不況の中でヒマになり、三原はお陰で哲学の本をゆっくりと読めるが、お金には頭を悩ませている。」(思わず震える筆で長々と)「AはBである。CはBである。故に、CはAである。」この様に明らかだと思っていたり、体験した知識を元に、考えを応用したり構築したりしている。
僕らはそれでまあ、生活してなんら不自由しないのだが、哲学者の中には、この明らかに「真」と思われる「命題」は本当に正しいと言えるのだろうか、何を根拠に「真」だと言えるのだろうか、もしそれが「真」でなければ「真」はあるのだろうか、「A=A」は間違いなんだろうか、と真剣に考えている人達がいる。
そんな面倒なことを考えるのは、酔興な人々に任せていればいいんだと思うのも勝手だが、彼らの解答で「A=A]は「真」とは言えないし、「真」でもある、又は、命題として成り立たないなどと言われると、おいおいちょっと待てくれよ、と思ってしまう。

「外的世界についてのわれわれの証明は、個々独立にではなく、1つの集まりとしてのみ、感覚的経験の審判を受けるのだ」
『論理的観点から』

簡単に言えば、「真」と思われる命題は、1つ1つ独立して存在しているのではなく、言説全体がネットワークを形成していて、命題1つ1つがその一部である。ある命題が否定されたりすると、そのつど修正・変動が行なわれ、言説全体が変容していくという。なんだそんなことか、それなら分かる気がするよと思う。そんな風にして自分の考えを修正したり、反省したりはしょっちゅうだからだ。

えっ?でも待てよ。それじゃ本当の「真」は確定されないということ?
カントの言うアプリオリ(認識において先なること)は無いの?目の前の焼酎はどう認識したらいいの?ほら、グラスに注げばトクトクと音をたてて氷を揺らすし、飲んでみると…うん、美味い。これってどういうことなんだろう?
クワインは、言語哲学、記号論理学、認識論に大きな影響を与えています。一見難しそうですが、簡単な例を自分で考えながら読むと、本当は身近な問題なんだと分かります。他にも「理論の決定不完全性」「翻訳の不確定性」「存在論的コミットメント」「指示の不可測性」「存在論的相対性」「認識論の自然化」など、興味あるアイデアが満載です。