世の中には、色んなことを考える人がいるもんだ。
勿論僕達だって一人一人は、他人に本当のところ理解されるはずもないことを考えたり感じたりしている。「君のこと良く分かるよ。」と言われると「俺の気持ちなんか他人に分かるもんか。」と思うし、かといって他人に「お前が何考えてんの、全然わかんないや。」と言われると、むきになって喋り始めたり、分かってもらえない疎外感や、孤独を感じて「誰か俺のことを分かってくれよ。」と嘆いたりする。
そう考えると人間って本当に身勝手なもんだと思う。
この身勝手な振る舞いをよく考えてみると、僕らは他人とどこか一脈通じるものを持っているという前提、そして僕のコトと他人のコトがあって、言葉や何らかのコミュニケーションによって、それが伝達認識されるという当然視があるようだ。だから〝分かってもらえない〝という不満な感情に、支配されるのだ。
そのことを大上段に言われると、ハイハイあなたのおっしゃる通りです。僕らはそんな常識の枠のなかで考え、囚われていますよと白けてしまう。
デリダは、わけ分からない言い回しや文体で、どうもそこらへんを言おうとしているようだ。実はようわからん。
「貴方達が常識だと思っていることは、間違っているんですよ。」という文章は、同じ常識として通用する世界の文体で表現しているにすぎなくて、同じ穴のムジナ。お前に言われたかあねえよ。ということになる。
僕らの世界は、つき詰めると「あれ」と「これ」は違う、という基盤に乗っ取っている。じゃあどう違うか「あれ」と「これ」。
長い/短い綺麗/醜い善/悪内部/外部男/女真理/虚偽自己/他者などと言う2項対立の概念が基本になっている。そこに差異が生まれ、それぞれ「あれ」と「これ」が確定し、固定すると考えている。その考えが背景にあって、言葉が生まれ使われているのだ。
[成程そうだと認めよう。それに気付いたからってどうしようと言うんだ。すでに気付かないと言う対立項にあるじゃないか。]
その構築から脱けるとは?
僕の名前は、「徳さん」という。これは「信夫くん」でもなければ「京子さん」でもない。個々の名前は、その他多くの(名前)あるシステムのなかで他の(名前)と区別差異されているに過ぎない。これは残念ながら、(名前)が差異されているということであって、その(名前)によって名ずけられた人の「固有性」を表現するものではないのだ。
もう少し言うと、「徳さん」は「信夫くん」と入れ替わることが可能な名前システム内の一つである。他の名前と同等な差異対象でなければ、名前として成り立たないからである。
その人の名前は、まさにその時他の人の名前になり得る名前でなければならない。
これを考えてみると、ある人を名前をもって呼ぶということは、その人の「固有性」を抹消するということと同じことなのだ。
「名付けることは、名付けつつ=名を奪うことである。」言葉に触れるやいなや、自分も他者も主体など吹き飛んでしまうし、禁止されるのだ。
[もうダメだ。言葉を使った時点で、その構築につかまるんだし、言葉無しでは考えられん。あ〜俺たちゃ浮草さ〜。]
僕も学生の時これらの考えに触れ、それを言っちゃお終いよ。もお何処にも立つ瀬がないじゃんかと思ってしまいました。ところがデリダはもう少し先まで言っていたんですね。その時は理解出来ませんでした。
ニヒリズムに陥るのは、思考の手抜きです。デリダは言います。自己同一性にいつまでも留まっていないで、どうせ他者性と触れるのなら、他者となりゃいいやんか。他者と深く関わって、その差異を反復し運動しろよ。
現在は、今だけでは時間は止まってるんだ。過去の思い出や後悔、未来への怖れや期待があって、初めて時間は動きだすんだ。時間は、過去・現在・未来という時間的差異を内包し、行きき反復することで生まれ続けるんだ、と。
[ホホウ。自己の中に、他者が生まれるのか。なにか分かったような、分からないような]
そう、多分〝分かった〝という文法を、デリダは用いたくないんです。だから分かったような、分からないようなが、最も良い感想なのかもしれません。俺の気持ちは、俺の中の他者への呼び掛けであると同時に、他者からの呼びかけへの応答である。
よかった、僕らは孤立していないし、孤立できない。
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