何故にコバルト文庫・X文庫等が売れるのか?
遅まきながら、その一端を垣間見たような気がします。僕らは、何を求めて本を読むのでしょうか。書物世界の、何をもって楽しんでいるのでしょうか。多くの人が、時間を経て読み継いでいるのは何なのか。
ウダウダと気難しい言葉を発したり、トロトロと自己満足の世界で遊んでいるような本よりも、シンプルな世界に盛りだくさんの格言の数々。良いではないか。文章はヘタだし、統一的な文体もないけど、ちゃんと読者を涙で潤し、日頃気にもしていない「生きる」ということを、一瞬でも気付かせて、元気に今まで通り生きてみようと思わせてくれます。成る程。成る程。
メモ風に、駆け抜けてみましょう。会話やちょっとした感情表現中心でストーリーが流れてゆき、ページ面が字で埋まらず見やすいし、すぐ読めてしまいます。挿し絵が多数載っていて、作品の雰囲気をイメージし易く、他者との感想会話においても作品世界の共有が容易である。前半に多用されている()内での感情表現が、日常口語体で共感とリズムの加速がなされています。
元気であり且感情がシンプルで、揺れが大きく表現が単純の主人公。典型的な漫画主人公タイプであり、これは一般的に理想とみなされる女の子である。現実には、いつも元気でいるはずもなく、ちょっとしたことでウジウジしたりそれが結構長引いたりするもんだ、人間って。
相手の男の子は、スポーツ中心で純心を失わず、時には大人びた影と理念を持っていて、そのアンバランスが魅力の源となっている。そしてなによりも、彼は死を背負っていて、二人の共通背景となっているのだが、最後にはきちんと彼だけが、その問題を持って逝って、主人公(読者)は生き延びて自分の要素に悲劇のアイテムだけを見に纏う。
死を知った二人の対応の仕方は、トルストイやキューブラ・ロスと同様な変遷を辿っているし、親に「バカバカしい。どうせ死ぬ人間と一緒にいて、何の得になるっていうんだ?」と言わせたり(そうか、僕らはやがて死ぬ人間と共に居るんだ)初七日を過ぎると、残った人々が日常に帰ってゆくところなんか完全にカフカだよ。
高2という年齢設定を考えると、チョット幼すぎるのではないかと気にはなったけど、そう言えばその頃に僕が読んでいた太宰の「アカルサハ滅ビノ姿デアラウカ。」に強い共感と、言い知れぬ不安を抱いたもんだ。
日本文学において、思春期文学の層の薄さがネックであると、常日頃思っているのだが、その任は少女コミックとX文庫が負っていて、もっと豊かに展開してくれたらいいなと思っている。
あまりにも単純な幻想世界の提出は、ヒットラーの言う{大きいウソ}の真実性の力を持っていて、心地良いのかもしれない。そんな世界に微妙な季節の揺らぎを生起させるのは、具体的に生きてゆくことだけが可能にさせる。
折原みとと同意見です。
P.S.「時の輝き2」も読んでください。この連作は、2巻組のストーリーと考えて良いぐらい前編の問題を深化させています。
(辻和俊)
はっきり言って、この種の小説を私はなめていた。どうせ、ろくなものじゃないとバカにしていた。
この文体にはイライラする人はあるかもしれないけど、ややこしいと感ずる人はいないはずで、それでも、生物的な死と社会的な死についてや、病院の中での患者さんの感ずるだろう問題がうまくまとまっている。この種の問題を扱った本はえてしてひどく面倒な文になったり、書いている人が感情的なので、読んでいてシラけてしまったりするのだが、この小説では主人公が読者とたいして変わらない(読者を小学校高学年から高校生位の女性として)人間として書かれているので、問題にとっつきやすい。死の問題はもっと論理的に考えることだと私は思うが、小説である以上そうはいかない。感情があわないと読んでつまらない。『時の輝き』では雑談をするように話が進んでいく。
テーマは生命と死。さとるのあわやの事態。恭ちゃんの父の死。さとるの死。そして、シュンチの不治の病と死。これらを通じて由花は成長する。考えてもいるのだが、気持ちに重きをおく。気持ちを由花と同じくさせて、読者めいめいで考えるように。生と死について考えるための足がかりとなる小説である。人の死はその人の死によってはまだ、不完全なのだ。その人は死んでも、まだ生きているのだ。それで、「おれの命、おまえにやるよ」が言える。そして、「“死”・・・は、物語の終わりじゃない」
死について多くを由花は学んだが、それらは二人称、三人称の死である。一人称の死について考えるには、きっかけとしてこの作品は弱い。メメント・モリ。
カタカナのむやみに使われる小説だった。そして、「☆」マークもしばしば用いられる。あとがきには「飼」もでてくる。「☆」は音声を持たない。それをセリフにまぜる。これによってより気持ちを伝えやすい。感情という、およそ語ることの厄介なものを、記号に凝縮させる。只、同じような感じ方をしない人には伝わらないが。そして、カタカナ。通常カタカナにはしない言葉をカタカナにする。効用は何か。ひとつは、むずかしそうな言葉がとっつきやすくなる。ひとつは漢字として頭にある言葉がカタカナにされると不意に意味を失う。分かっているのに分からなくなる。おそらく折原はこの小説を書くとき、原稿用紙のマスをうめるのでなくて、マンガを書くようなつもりで文字を書いたのではないかと思う。折原には、余白の部分はマンガにおいての背景の意味を持つのかもしれない。だから「今度は2行文の沈黙」という言葉が出る。文字そのものも折原にはキャラクターなのかもしれない。いっそ、擬音+セリフによって、文字の大きさを変えたり、書体を変えたり、色を付けてもいいかもしれない。紙の色も白でなくてもいいし、本の形も四角でなくともよい。ところどころにイラストをいれずとも存分に楽しめると思う。
Y嬢の物語(あるいは文体練習)
(肋屋雁作)
オトメちっくってなんなのかしら……?
あたしいつも思うんだけどね、女のコって男のコとは違う表ソウをただよってると思うの・・・。それとも、あたしが男のコだからそう考えるのかもしれないけれど……。
『少年ジャンプ』とか『少年マガジン』なんか読むとね、主人公達が・・・「俺こそが主役だ!!」・・・ってカンジのセリフや態度をとっているのに気付くの。
でもね、『時の輝き』を読んで思ったんだ(あたしは今まで「少女マンガ」も「コバルト文庫」も読んだことがなかったから、こういうの読むの初めてなんだよ☆)、・・・「男のコとは違うっ」・・・って……
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女のコって海辺のポーリーヌなのかなぁ?
夏の浜辺で男たちを誘惑するポーリーヌ、片思いに悩むポーリーヌ……。
「見られることで見ている」
そんなソフトなマゾヒズムに心ときめかせているみたいに思えるの。
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看護学科に入ったのも、彼女が考えるいろいろなことも……、結局、由花のヨクボウっていつもシュンチがいるのよね。ううん、シュンチだけじゃないわ!パパとかママとか恭ちゃんとか……いつも誰かがカイニュウしてくるの。
それって少年マンガにお定まりの「正義・力・勝利」なんかとはチガうヨクボウだと思うんだ。だって『ドラゴンボール』にいるのは悟空だけみたいに見えるの。(これを読んでるみんなはどう思うのかな……。チョット心配)
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男は能動的で女は受動的だなんてヘンな話をするつもりはないけど、男のコらしさとか女のコらしさってみんなも気になるよね?
もっと広い視野で眺めてみると「同性愛者らしさ」とか「バイセクシュァルらしさ」なんていうのまで出てくるからホント謎だよ……
あたしの意見ではね、「ジェンダー(社会的性差)」っていうのは造られたもの・・・それに合わないものはハイジョされ、それに合ったものは取り入れられ、強化されていくもの・・・だと思うんだ。
だって、そうじゃないと一夫一婦制なんてうまくいくと思う?
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上野千鶴子っていう人が書いた『スカートの下の劇場』ていう本があるんだけどね、その中にオモシロイ写真が載ってるんだ。
写真は二枚あるの。
どっちも「アメリカの女性下着のカタログ」を写してるんだけどね、一方は男性向け、もう一方は女性向けなの。
男性向けのほうはスゴイ写真がいっぱい載っててね、「隠す」という役目を放キしたようなブラジャーをつけた女の人がオッパイ丸出しで指をくわえて立ってるの……。
そんでもって女性向けのほうにはそういうカゲキな写真はなくって、フリフリの付いた下着を着た金髪美人がうっとりした顔をしてソファーに寝そべったポーズなの。
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下着一つをとってみても男と女では持ってる幻想がこれだけチガってくるのね
ってことはやっぱ、悟空と由花ちゃんでは…何だか…二人して大きなズレを抱え込んでるように思うの。
男も女も呪い殺す不気味なもの・・・性!!
折原センセイがこのことをマジメに考えてるかどうかは分かんないけど、『時の輝き』を読まなかったらあたしも大した危機感を持たなかったんじゃないかしら?(…と反省してま〜す)
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折原センセイの書いてる性も病気も軽・・・いもんだと思うけど、「二行分の沈黙」なんていう言葉とか、重・・・っいテーマの本文のあとに印刷されているあっけらかんとした後書き(…まるで不意打ちよね…)なんかには、さすがのあたしもド胆を抜かれたわ。
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