洗たく物/石垣りん

私どもは身につけたものを
洗っては干し
洗っては干しました。
そして少しでも身ぎれいに暮らそうといたします。
ということは
どうしようもなくまわりを汚してしまう
生きているいのちの罪業のようなものを
すすぎ、乾かし、折りたたんでは
取り出すことでした。
雨の晴れ間に
白いものがひるがえっています。
あれはおこないです。
ごく日常的なことです。
あの旗の下にニンゲンという国があります。
弱い小さな国です。
(『略歴』石垣リン詩集花神社)

あのときすきになったよ/黛くみこ作飯 野和好絵 教育画劇

「しっこ」とあだ名を付けられた女の子と、主人公との心暖まる交流話…だと思う…。
これだけでも僕は良いな、絵も生きているし、子どもの心の軌道が自然に描かれていて、一読して推薦本に決定した。ところが、読了後に小3と幼稚園のうちの子に感想を聞くと、全く違う解釈を嬉々としてしゃべるではありませんか。えっ。ほ〜。なるほどと感心してしまいました。多分、作者の意図とは違っているとは思うけど…。
最大山場の“あのとき”に、小3の子は心の交流など完全に無視しているし。幼稚園の方は、ひたすら絵のデフォルメが気に入った様子です。
一般的に本の解釈は自由だと言いますが、それでも最大テーマは押さえてほしいと思っているのが作者や先生、親ではないのでしょうか。その分だけ本は暗黙のテーマを押し付けているのかも知れません。
そんなことをするりと抜け出て行く子ども達の感性と、抜け穴を残している本との心の交流が、羨ましく感じてしまった徳さんです。

ベンヤミン破壊・収集・記憶/三島憲一 講談社

思いもよらず、大きく心動かされました。
10数年前に、ベンヤミン著作集1.『暴力批判論』(晶文社)を読んだきり、折に触れ引用される「パサージュ論」を読んでみたいと思いながら、その膨大な量に二の足を踏んでいました。正直言って「暴力批判論」は、出版当時の政治情況もあるのだろうが、その左翼思想文法の翻訳が鼻につき、嫌気がさしたことに加えて、所々に見られるジリリとする思想の断片に出会う希有さに疲れ、半ば飛ばし飛ばし読んでしまった。
人が、時間の桎梏から逃れるのが困難なように、思想もその時間軸と言語の呪縛から決して自由ではない。想像力のない思想と思想家は、枯葉降り積もる時間さえ与えられず、屍と化すのだ。皮肉なことにベンヤミンの思想は、その左翼性を痛烈に批判していたのだ。彼は、右も左も全否定する地点に立とうとしていた。いや、その”地点”という定点思想を憎み、破壊し続けようとしたのである。
対立する主義、思想のそれらを成り立たせている原理を比べてみると、同一であったり、一・二層掘り下げた次元では、逆転原理であることなどにベンヤミンは一人気付き、孤独のうちに苛立つ。
政治情況を見ても、ナチズムが持つ反ユダヤ主義の前段階では、数多くのユダヤ系知識人が支持をしていたこと、日本においては、大戦前後の知識人・文学者・大衆の言動を思い返せば容易に想像が付きます。
同様なのだ、表層すら変わっていない。
勿論それらへの批判は、我が身をも切り裂く。お前も同族だという偏狭な視点ではなく、全否定の地点が全肯定と同点であるという思想構造の意味で。
ならばどうするか。
全てを破壊し断片化せよ。
事物の中には意味がないのだ。
事物の背景や内部に意味を探せば、自ずと定点を生む形而上化がなされてしまうから。
それら断片の<配置>が、一瞬の意味を浮かび上がらせるのだ。

ベンヤミンが亡命途中で自殺を図って、約60年になろうとしています。
彼がパリを離れる時バタイユに託したメモは、その量・内容とも膨大な断片群であった。

教育のなかの学習障害 /上野一彦有斐閣新書
のび太・ジャイアン症候群 [注意欠陥・多動性障害(ADHD)] /司馬理英子 主婦の友社

10年前、僕は自閉症の人たちと一緒に活動していました。その当時は、内省と蛮行の繰り返しで、彼らや回りの人達に随分と迷惑をかけたと、今でも時々胸が痛むことがあります。
多くの人に眉をひそめさせといて随分と身勝手な言い方だけど、僕にとっては本当に有意義な経験でした。本当に感謝しています。万巻の書より多くの示唆を受けました。
現在僕の障害者問題、障害児問題への基本的スタンスは、その時の経験に多くを拠っています。
「健常」と「病」の境界論などという、愚にもつかない話をするつもりはありません。しかし現実に社会生活を営む上で僕らは、確信的に「病」の領域を認識しています。このことは、百孝に値する問題性を孕んでいると考えます。正常とはなんなのか、異常とは。この問いは、無意味です。正常も異常も無いなどという愚答は、もっと無意味です。
理知的に問いを立ち上げることを嘲ら笑い、凝視すれば同化し、目を背けると闇のその中で黒き身をユルリと起き上げる、あいつ。
時代や医学が病気を規定し、生産し続けていく中で、僕らは「ある病」に片足を突っ込んでいることに半ば安心し、他者の病との軽重の比較を計ることによって心の均衡をとっています。

数年前から学習障害(LD)という用語が聞かれ始め、僕は興味を覚え色々と見聞きしていました。そしてADD/ADHDと病は細分化され、教育システムの中や「学級崩壊」「環境ホルモンとの関係」などと共に考え始められてきています。
ADHDの診断基準からいくつか抜粋してみます。
o課題への取りかかりが遅い。。ケアレスミスが多い。
o根気がない。努力しない。
o話しかけても聞いていなかったり、正確に聞かない。
o規則や言いつけが守れない。あるいは途中で投げ出す。
o掃除などをさぼる。いつも注意される。
o計画を立て、実行するのが苦手。
o時間配分が出来ず、宿題などやることをやってから遊ぶという配慮が出来ない。
o勉強・宿題などをいやいややる。やるにしてもおざなりにやる。
o字がきたない。(字を丁寧に書こうとしない。)
oすり傷、切り傷が絶えない。靴が早く傷む。
o物をよく落とす。忘れ物をする。
o歯磨き手洗いなど、毎日の日課を嫌がる。
oお客が来ると異様にはしゃいだり、うるさくつきまとう。
などである。
もう一度断っておくと、これは「子ども」の定義ではなく、ADHDの診断基準の一部です。
僕は、何度読んでも子どものイメージが思い浮かびます。しかし、ここが大事なところです。ここで簡単に「子ども」にしてはいけないのです。そしてまた、「病」の特権にしてもなりません。
子供の病気の話題になると、きまって2つの反応に収斂してしまいます。それは病気なんかじゃないよ、子供の個性だよ、という人。病気ときちんと認識区別して、ケアしなければならないと考える人。
僕はどっちかというと、子供の個性をきちんとケアして、病気の個性と仲良くしてゆけたらなと思っています。
この優柔不断は、けっこうマジなんですよ。

接触/パトリシア・コーンウェル 講談社

検屍官スカーペッタシリーズの第8弾であるが、もうここまでくればとことんケイとマリーノに付き合うぜっていう気になってくる。
シリーズものが、マンネリ化するのはどうしようもない。マンネリ化するとは、簡単に言えばそのシリーズの文体が強固されるということだ。第1作から読み継いできた読者にとっては、その鮮烈な切り口や新しい文脈が色褪せて感じてしまう。そりゃ仕方ない。そのシリーズの文体に、読者が染まってしまうからだ。
作者は毎回新しい角度の光を当てたり、新手の危機を用意したりするが、読者はマダマダとがっぷり四つの力相撲となる。大概は、攻めの作者側が力尽きてしまい、読者の寄り切りで勝負ありとなってしまう。しかしなかには、相手側の流れる汗を不意に感じとってしまい、気が付けば同じ汗を流している自分の一人相撲となってしまうこともある。こうなると読者側のマケだ。
主人公たちの心の痛みや苛立ち、恐怖が手のヒラに表れ出したら、諦めて彼らと共に歩もう。
先に読んだ人が言ってました。
「スカーペッタが、だんだん可哀相になってきた。」
僕も同感です。
今夜は雨が降り続いています。

『時の輝き』/折原みと S講談社X文庫
(徳さん)

何故にコバルト文庫・X文庫等が売れるのか?
遅まきながら、その一端を垣間見たような気がします。僕らは、何を求めて本を読むのでしょうか。書物世界の、何をもって楽しんでいるのでしょうか。多くの人が、時間を経て読み継いでいるのは何なのか。
ウダウダと気難しい言葉を発したり、トロトロと自己満足の世界で遊んでいるような本よりも、シンプルな世界に盛りだくさんの格言の数々。良いではないか。文章はヘタだし、統一的な文体もないけど、ちゃんと読者を涙で潤し、日頃気にもしていない「生きる」ということを、一瞬でも気付かせて、元気に今まで通り生きてみようと思わせてくれます。成る程。成る程。
メモ風に、駆け抜けてみましょう。会話やちょっとした感情表現中心でストーリーが流れてゆき、ページ面が字で埋まらず見やすいし、すぐ読めてしまいます。挿し絵が多数載っていて、作品の雰囲気をイメージし易く、他者との感想会話においても作品世界の共有が容易である。前半に多用されている()内での感情表現が、日常口語体で共感とリズムの加速がなされています。
元気であり且感情がシンプルで、揺れが大きく表現が単純の主人公。典型的な漫画主人公タイプであり、これは一般的に理想とみなされる女の子である。現実には、いつも元気でいるはずもなく、ちょっとしたことでウジウジしたりそれが結構長引いたりするもんだ、人間って。
相手の男の子は、スポーツ中心で純心を失わず、時には大人びた影と理念を持っていて、そのアンバランスが魅力の源となっている。そしてなによりも、彼は死を背負っていて、二人の共通背景となっているのだが、最後にはきちんと彼だけが、その問題を持って逝って、主人公(読者)は生き延びて自分の要素に悲劇のアイテムだけを見に纏う。
死を知った二人の対応の仕方は、トルストイやキューブラ・ロスと同様な変遷を辿っているし、親に「バカバカしい。どうせ死ぬ人間と一緒にいて、何の得になるっていうんだ?」と言わせたり(そうか、僕らはやがて死ぬ人間と共に居るんだ)初七日を過ぎると、残った人々が日常に帰ってゆくところなんか完全にカフカだよ。
高2という年齢設定を考えると、チョット幼すぎるのではないかと気にはなったけど、そう言えばその頃に僕が読んでいた太宰の「アカルサハ滅ビノ姿デアラウカ。」に強い共感と、言い知れぬ不安を抱いたもんだ。
日本文学において、思春期文学の層の薄さがネックであると、常日頃思っているのだが、その任は少女コミックとX文庫が負っていて、もっと豊かに展開してくれたらいいなと思っている。

あまりにも単純な幻想世界の提出は、ヒットラーの言う{大きいウソ}の真実性の力を持っていて、心地良いのかもしれない。そんな世界に微妙な季節の揺らぎを生起させるのは、具体的に生きてゆくことだけが可能にさせる。
折原みとと同意見です。

P.S.「時の輝き2」も読んでください。この連作は、2巻組のストーリーと考えて良いぐらい前編の問題を深化させています。

(辻和俊)

はっきり言って、この種の小説を私はなめていた。どうせ、ろくなものじゃないとバカにしていた。
この文体にはイライラする人はあるかもしれないけど、ややこしいと感ずる人はいないはずで、それでも、生物的な死と社会的な死についてや、病院の中での患者さんの感ずるだろう問題がうまくまとまっている。この種の問題を扱った本はえてしてひどく面倒な文になったり、書いている人が感情的なので、読んでいてシラけてしまったりするのだが、この小説では主人公が読者とたいして変わらない(読者を小学校高学年から高校生位の女性として)人間として書かれているので、問題にとっつきやすい。死の問題はもっと論理的に考えることだと私は思うが、小説である以上そうはいかない。感情があわないと読んでつまらない。『時の輝き』では雑談をするように話が進んでいく。
テーマは生命と死。さとるのあわやの事態。恭ちゃんの父の死。さとるの死。そして、シュンチの不治の病と死。これらを通じて由花は成長する。考えてもいるのだが、気持ちに重きをおく。気持ちを由花と同じくさせて、読者めいめいで考えるように。生と死について考えるための足がかりとなる小説である。人の死はその人の死によってはまだ、不完全なのだ。その人は死んでも、まだ生きているのだ。それで、「おれの命、おまえにやるよ」が言える。そして、「“死”・・・は、物語の終わりじゃない」
死について多くを由花は学んだが、それらは二人称、三人称の死である。一人称の死について考えるには、きっかけとしてこの作品は弱い。メメント・モリ。
カタカナのむやみに使われる小説だった。そして、「☆」マークもしばしば用いられる。あとがきには「飼」もでてくる。「☆」は音声を持たない。それをセリフにまぜる。これによってより気持ちを伝えやすい。感情という、およそ語ることの厄介なものを、記号に凝縮させる。只、同じような感じ方をしない人には伝わらないが。そして、カタカナ。通常カタカナにはしない言葉をカタカナにする。効用は何か。ひとつは、むずかしそうな言葉がとっつきやすくなる。ひとつは漢字として頭にある言葉がカタカナにされると不意に意味を失う。分かっているのに分からなくなる。おそらく折原はこの小説を書くとき、原稿用紙のマスをうめるのでなくて、マンガを書くようなつもりで文字を書いたのではないかと思う。折原には、余白の部分はマンガにおいての背景の意味を持つのかもしれない。だから「今度は2行文の沈黙」という言葉が出る。文字そのものも折原にはキャラクターなのかもしれない。いっそ、擬音+セリフによって、文字の大きさを変えたり、書体を変えたり、色を付けてもいいかもしれない。紙の色も白でなくてもいいし、本の形も四角でなくともよい。ところどころにイラストをいれずとも存分に楽しめると思う。

Y嬢の物語(あるいは文体練習)

(肋屋雁作)

オトメちっくってなんなのかしら……?
あたしいつも思うんだけどね、女のコって男のコとは違う表ソウをただよってると思うの・・・。それとも、あたしが男のコだからそう考えるのかもしれないけれど……。
『少年ジャンプ』とか『少年マガジン』なんか読むとね、主人公達が・・・「俺こそが主役だ!!」・・・ってカンジのセリフや態度をとっているのに気付くの。
でもね、『時の輝き』を読んで思ったんだ(あたしは今まで「少女マンガ」も「コバルト文庫」も読んだことがなかったから、こういうの読むの初めてなんだよ☆)、・・・「男のコとは違うっ」・・・って……
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女のコって海辺のポーリーヌなのかなぁ?
夏の浜辺で男たちを誘惑するポーリーヌ、片思いに悩むポーリーヌ……。
「見られることで見ている」
そんなソフトなマゾヒズムに心ときめかせているみたいに思えるの。
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看護学科に入ったのも、彼女が考えるいろいろなことも……、結局、由花のヨクボウっていつもシュンチがいるのよね。ううん、シュンチだけじゃないわ!パパとかママとか恭ちゃんとか……いつも誰かがカイニュウしてくるの。
それって少年マンガにお定まりの「正義・力・勝利」なんかとはチガうヨクボウだと思うんだ。だって『ドラゴンボール』にいるのは悟空だけみたいに見えるの。(これを読んでるみんなはどう思うのかな……。チョット心配)
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男は能動的で女は受動的だなんてヘンな話をするつもりはないけど、男のコらしさとか女のコらしさってみんなも気になるよね?
もっと広い視野で眺めてみると「同性愛者らしさ」とか「バイセクシュァルらしさ」なんていうのまで出てくるからホント謎だよ……
あたしの意見ではね、「ジェンダー(社会的性差)」っていうのは造られたもの・・・それに合わないものはハイジョされ、それに合ったものは取り入れられ、強化されていくもの・・・だと思うんだ。
だって、そうじゃないと一夫一婦制なんてうまくいくと思う?
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上野千鶴子っていう人が書いた『スカートの下の劇場』ていう本があるんだけどね、その中にオモシロイ写真が載ってるんだ。
写真は二枚あるの。
どっちも「アメリカの女性下着のカタログ」を写してるんだけどね、一方は男性向け、もう一方は女性向けなの。
男性向けのほうはスゴイ写真がいっぱい載っててね、「隠す」という役目を放キしたようなブラジャーをつけた女の人がオッパイ丸出しで指をくわえて立ってるの……。
そんでもって女性向けのほうにはそういうカゲキな写真はなくって、フリフリの付いた下着を着た金髪美人がうっとりした顔をしてソファーに寝そべったポーズなの。
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下着一つをとってみても男と女では持ってる幻想がこれだけチガってくるのね
ってことはやっぱ、悟空と由花ちゃんでは…何だか…二人して大きなズレを抱え込んでるように思うの。
男も女も呪い殺す不気味なもの・・・性!!
折原センセイがこのことをマジメに考えてるかどうかは分かんないけど、『時の輝き』を読まなかったらあたしも大した危機感を持たなかったんじゃないかしら?(…と反省してま〜す)
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折原センセイの書いてる性も病気も軽・・・いもんだと思うけど、「二行分の沈黙」なんていう言葉とか、重・・・っいテーマの本文のあとに印刷されているあっけらかんとした後書き(…まるで不意打ちよね…)なんかには、さすがのあたしもド胆を抜かれたわ。