「併し」(しかし)の行き着く果ては。
世を捨てて逃げる様に流れ着いた先で、病気の獣肉を串刺しながら生きる男と、蓮の花が人目を引き付ける様に、路地に息づく男達の憤怒と失意を吸い寄せ、花咲く泥地の粥すすって生きる女の心中話である。
かつては言葉でものを考え、言葉で世を恨んだ男は,「もうどでもいいんです。」と言葉を吐き続けるが、そんな言葉は「ジゴク」を行き来する人達に言葉にもなってはしないと、せせら笑われる。
ふいに目の前に素足の女が立ち、下穿きを足から抜きとり、読んでいた新聞紙の上に投げ捨てた。・・・獣の夜が終わり女が去った後、男は静かに白い下穿きを新聞紙に包み、臓物の臭気が篭もる冷蔵庫の一番下に仕舞い込む。
二葉亭四迷以来、日本文学の主流に居を構えていた知識人の苦悩は、いとも簡単に、野菜フリーザに投げ込まれたのだ。いとおしげに女の温もり残る下穿き抱いて。
「人が人であることは、辛いことである。」と言葉に変える作者は、一つ言葉を置いては「併し」を書き連ね、また一つ言葉をシミの様に刻みつける。
それは、言葉に何とか魂を吹き込ませようとするかの様だが、口当てるゴム穴より大きな破れある風船は、ふくらむ運命を持ってはいない。
ただ人は、唾に濡れたゴムを不快な心持ちでこね回し、時折り悲しげにキュッと鳴く軟体を気味悪げに見下ろしては、目を背ける事も出来やしない。
著者の作品は、以前「鹽壷の匙」を読んだことがある。
ネチネチと己れが事を、繰り返し繰り返し書き連ね、自分という事に成仏出来ない恨みを書いている作家がまだいることに、感動と共感を抱いた覚えがある。
「車谷長吉」の名前は、雑誌で時々見かけてはいたが、あえて読もうとはせず、せめてこのまま亡霊の様に、日本文学に張り付いていてほしいと願っていた。
今回読んでみて素直な感想で言えば、最後は失敗だと思う。しかし、その失敗は作者自身の未消化というよりも、現代の迷いである。
これには僕自身、批判半分と安堵半分なのが正直なところである。
「併し」(しかし)の意は、人が並び連なる意であるから。
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