オウム真理教による事件とは、何だったのでしょうか?
改めて過去の事件を問い直すということは、僕らが着地させているイメージの物語を壊すということです。
オウムの悪信者が、全く関係ない一般市民を無差別に攻撃し死傷させたということ。麻原というイカサマ師に、単純についていった愚かな信者たちがいたということ。悪いのは彼らで、僕らは彼らとは全く関係ありませんetc・・・
僕らはそのイメージで無事一件落着させて、次のエモノ探しを繰り返しています。
どっかのおっさんが、「あなたたちは、それでいいのか。」と胸を張って言ってくれば、「はい、はい。良くないですよ。僕らの問題でもあると言いたいんでしょ。」と白けながら呟きます。正直言ってそんな責任のやり取りには、もう辟易しているんです。そんなやり取りなんかには、全然興味がありません。
気になることは、ただ一点です。
なぜ、僕らはこれらのイメージとして落ち着かせているのか。
どうして、この構図で安心してしまうのか、ということです。
前作の「アンダーグランド」を読んで素直に感じたことは、一つの事象があると、その事象にはそれにつながる無数の人々の物語がある、という当たり前のことでした。
それにはもちろん、その事象を知った立場としての「自分の物語」がそこに内包されています。その意味で、僕らはあらゆる事件、日常、瞬間から自由ではないのです。
そのことを前作で、あの日に直接つながった人々の物語を、延々と読むことで自覚できたのでした。
では今回はというと、オウム信者達へのインタビューというよりも、この「自分の物語」自覚者たちへのインタビュー集だと思います。
素直にこのインタビュー集を読んでみると、皆驚くほど真剣に自分のことを考えています。学童期近くの早い時期から自分のことを見つめ、その為社会や世界に違和感を感じたり、外部を相対的に見ようと努めています。たとえその世界が稚拙だとしても、「自分の物語」に意識的に接近しようとしてきた者たちが、何故あのような愚かなまた残虐な行為へと走って行ったのでしょうか?
腹の足しにもならない「私は・・・?」の問いは、「分からない。」か「俺は〇〇だ。」か「助けてくれ。」に分化します。
「分からない。」はさらなる疑問を生んで、諦め放棄するまで続く、アリ地獄のようなものです。
「俺は〇〇だ。」はそこで問題は解決しますが。満足しているのは自分だけで、回りはハタ迷惑なだけの困った輩となります。
「助けてくれ。」は、一番人間らしく好感は持てますが、自分の物語を一つ大きな物語(宗教、国家、主義・・・)に預けて、別の次元へと歩み出す危険性をはらんでいるのです。
「俺たちだって自分のことぐらい考えてらい!」
その通りです。私たちは日頃、「私は…?」などという問いを立ててはいませんが、常に自己確認を繰り返しているのです。
自分のことを考えるために必要となるのが、他者です。他者あっての私ですから。
家族、友人、周りの人間、そしてテレビのなかの有名人、世間の注目を集めている事件当事者皆が、他者でありその人々のイメージを通して、自己決定しているのです。
あの人は、こういう人だという決定は、その深層に自分はこうだといっているんです。お金持ちだとその人を見る事は、それに比べて自分は…という心理が働いています。自分も同じ金持ちならば、金持ちである事は問題にならないから。
各種の事件当事者に惹かれるのも、同じ事です。大概は犯人の非道さとか、被害者の無念とか、事件の規模だとかが興味の中心となっています。しかし、その事件に我々が投影しているものは事件の実像というよりも、犯人ほど俺は悪意を抱いていないし、被害者の良さは、共鳴する分だけ自分にもあるのだし、あの事件現場の近くに自分も行ったことがあったり、知人がいたりする・・・ではないですか。
なにが悪いんだと開き直らないで下さい。良い悪いを言っているわけではないのです。その様に自然に思考している、と言っているだけなのですから。
その意味でも、事件や日常から「自分」は自由ではないのです。自由ではないどころか、事件を取り込むことによって「自分」になり、自分という事件を生み出しているのです。
彼ら自覚者の見落とした点は、外部との表裏としてしか自分はありえないことに気付かなかったことです。だから「単独」で「自分」が成り立ち、内界の救済が世界の完成につながると幻想したのです。そこで外部は、あくまでも「自己以外」だけで、ポアしようが内界とは基本的に別容器なのです。
外界との別なく埋没している僕ら無自覚者は、事件に触れて初めて「自分」を手に入れ、果てしのない他者探しを繰り返しています。
しかしそこには、大きな罠が待ち構えています。初めは「個々の差異」で始まる事件は、時を経るにしたがって一枚一枚僕らを蔽う大きな物語「私達」へと変容してゆくのです。
ゆっくりと身に纏う僕らは、自己確認の安堵に恍惚となってゆき、「私」から「私達」へと手を伸ばしてゆくのです。
気が付けば過去の事件は、自己すら投影出来ないくらい無意味な公式と化しています。
そこに見えるのは、「私達」の社会や国家の自己確認です。
自己の中に潜む悪意を社会の悪意に変容させ、それらを排除する事によって自己保身しているのではないでしょうか。
それが着地させたイメージなのです。
自覚者となるのも地獄、無自覚者でいるのも地獄。
どうせ同じ地獄なら、僕は別の地獄を探しにゆきたいのです。
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