同性愛の問題に取り組んで、数ヶ月たちました。
正直なところ、当初では考えてもみなかった場所に、辿り着いたような気もしています。1つは、この問題に無知であり、間違った認識に立っていたことへの大きな反省があります。たいへん勉強になりました。もう1点は、個人的なことですが、自分の考えが持っている将来のビジョンが、どうしてもネガティブになってしまっていて、行き詰まっていたことと関連します。「単独者は連帯できるのか?」とのフーコーの問いに、自分なりの解答を見出せないでいました。そんな僕に、同性愛の運動及び理論は、一筋の光となりました。
ようやくこの問題の端緒についたばかりで、意見するにはほど遠いのですが、とりあえず中間報告という形でまとめてみます。
初めの数枚は、3ヵ月ほど前に書いていたものです。自分の間違った出発点と混乱がよく分かるので、乱脈になりますがあえて載せました。
それでは、どうなりますことやら。
「性」の問題は、自分の重要テーマですが、その中でも同性愛の問題は2つの意味で注目しています。
第一に、僕個人の感性として“どうも分からん”ということです。
近年欧米などで非常に増え(?)、ある面では市民権を得たかのように思われる、ホモセクシュアルの情況があります。考えなくてはならないことは、この同性愛の問題が、現代の問題として意味を帯びてきたこと、そしてそれに多くの人たちが反応しているということだと思います。これは生物学的な問題なのかもしれないし、キリスト教的宗教性の問題なのかも知れません。また、もっと別な理由があるのかも知れません。それらを考え、自分の感性に照らし合わせてみても、鈍い為かピンとこないのです。このピンとこないのが、どうも気になって仕方がないんです。
もう一つは、店で売れている本のジャンルで、美少年による同性愛誌が近ごろ異常に売れている現状があります。しかも、女子中・高校層が急激にふえています。決して無視できないくらいに。思春期のころの性世界への接近において、彼女たちの内部で何が構築されているのか、キチンと考えなければいけないと思ったのです。
結論が、自分の中で出たわけではないので心許ないのですが、現在の僕の認識を書いてみたいと思います。
始めに、この問題に入る前にメモ書きしたものを書き留めておきます。
◆生物学的な性の多様性
◆生殖の意味からの性の離脱
刺激・快楽のみの性、美としての性、身体・ファッションとしての性
◆社会的性(政治・制度)からの性の分化[ジェンダー]
生殖器中心主義
◆ナルシスト的自己愛
↓精神だけではなく身体愛としての自己希求
芸術、文化分野に同性愛者多し?
◆バイセクショアルとしての性の復権
◆同性であるが故に交流可能である生理的親和
レズビアンー生理における身体観
◆エディプス・コンプレックスにおける意味の変質
同性愛雑誌・母娘一体化・・・・
◆時代・社会による性の実態化→普遍的性の不在
◆アイデンティティーとしての性の細分化→孤立化の深化
↓
自己空虚の思想の果ては?
◆ホモセクショアル
→ゲイ&レズビアン→クイア
◆多様な性の生態
性行為の範疇に同性行為も含まれている。
種が社会性を獲得したとき、発情期の喪失が起こった。
日常的な心身のコミュニケーションを必要とする
→ヒト、ボノボ
◆18世紀、社会構造の強化のため異性行為を奨励、権力化する
→ホモ・へテロの分離
◆育児・生活様式において、対家庭・男女差が少なくなる
→無意識層の均質化→性差の崩壊
→基本形である女性性が、男性性よりも比率高まる
→家族内での性の均質化
→育児・生活様式において、対家庭・男女差が少なくなる→…
◆女性が読む男性同性愛誌、男性が読むレズビアン誌
→自分の性が語られないことによって現実的な生々しさを感じず、性の世界をイメージできる。
->自己性の限界・具体化を避ける。
◆ゲイ〜性関係のコントロールの中心は「愛」ではなく「合意」である。
「性」「愛」「家族(生殖)」との分離がなされている。
「パートナー」関係の持続性の問題。
◆レズビアン〜性経験を経ないと、自己の性的指向の自覚化が十分になされないことが多い。
ゲイは、マスターベーションでのイメージ等によって自覚者が多い。
(上記のデーターは本当か?)
◆大多数とは、アイデンティティーを必要としない者達のことだ。
これら同性愛の問題への興味は、自分自身の性の問題を考えてゆく上で、必然的なことでした。
つまり、「僕の性とはなんだろう?」「この欲望ってなんだろう?」という疑問が、当然ながら他者との比較、そこで現れる違い(差異)が、自分の性の固定化を進めるのだろうと考えていました。
フーコーが「性の歴史」で書いているように、17世紀以前には、この世に同性愛者などいなかったのです。同時に、異性愛者も不在であったのです。あるのは、同性愛行為と異性愛行為があっただけです。これらは分化されていなくて、<あれ>のなかに全部含まれていたんです。つい、この前まで!
この事実は、僕に大いなるショックを与えました。僕の性なんか生れつきの本質ではなく、いわゆる社会的なものだったんだ。僕が漠然と抱いている性の欲望も、50年後には2つか3つに分化され、よりクリアなものになるかもしれない。それもまた、無数に分化される運命にある。「今の俺の性って何だ!」異国や違った時代に生まれたら、変わってしまうものなんだ。俺の性って。
僕にとっての意識形成論は、フロイトによるところが大きいです。だから同性愛の問題も、エディプス・コンプレックスと去勢・コンプレックスの関係理論で考えていました。それを踏まえた上で、病理という視座を否定しつつ、性のもつ多様性の一環として、自然な同性愛の根拠を探そうとしていたのです。頭では、自分の性は社会的産物だと知って驚き、心情的には、「私」という基底の大きな根拠に、性を考えたいと希望していました。
同性愛は、性的指向(志向ではない、意志ではどうすることも出来ない)とされ、マイノリティーとしての地位を固めてきた一方で、同じ同性愛のなかでも、SM、性転換希望者、異性服趣味等差異化が進んでいます。また、その中で差別も現れていると聞きました。
生殖という桎梏を越えて、性を提出し始めた彼(彼女)らは、人類の意識の将来を間違いなく具現しているのである。
彼、彼女らは何処へ行こうとしているのか?いや彼、彼女らと僕は!!
(以上97年8月記す)
現在一つはっきりしてきたのは、大きな物語は終わった、大きな物語は信用しないよということだと思います。ベルリンの壁が崩壊し、イデオロギーの幻想は潰えました。
今は決定的に、個人の世界になったんだと思います。個人を表現する為に、公約数的な概念を使用することは、二次的なものとなっています。日本人だとか資本主義だとか、個人を包括する物語(大きな物語)は、個人にとって本質的な意味はなくなりました。それが現在だと思います。
そしてその方向は、個人の規程の細分化へと進みます。「私」の趣味は、好みは、性の指向性は、身体は、とそうならざるを得ません。それは一見、固定化を指し示しているかのように見えます。しかし、確かに個人を規程するジャンルは明確化を増しますが、細分化している分だけ、その一つ一つの意味の重さは軽量化されているのです。
「私は」「私は」と答えれば答えるだけ、その根拠の無さ、空虚さを増すだけなのです。
そんな個人が、共に生きることは可能なのか?
考えうる共存は、個人がそれぞれの可変可能な指向性の基で、その時その時他者との<ゆるい連帯>を生んでゆくしかないと思います。
ある時は、育児に追われる主夫で、午後からは反戦集会へ、夜は仕事の関係から自民党議員の支援会などという風に、一つ一つは結びつかなかったり、矛盾していたりもします。しかしその選択は、個人を規程する何ものの矛盾も生みません。また他者と連帯する規制も、必然性も必要とはしないのです。
{ゆるく結合し、自由に解体してゆく。そしてその基盤は、可変的な細部ジャンルを持っている個人である。}
同じ人間だからとか、同じ男だから、同じ障害者だから、同じ宗教、同じ国家だからなんて言葉は信用しない。
何かの共通項の概念でくくる思想は、全て間違っています。
ある時は人間として考え、ある時は女として行動し、ある時は障害者として社会の差別を訴え、ある時は同じ宗教者と共に祈り、ある時は国境を越えて異国の風にふかれてみる。そうあるべきだ。
あなたと私は違うんだ。
全ての人間は、クイア(異体)である。
この異体という一点でのみ、連帯の可能性があると思います。
大事なことは、この違う者同志が違うことを前提として、共に生きてゆくことです。
ささやかでも、小さな幸せを夢みながら。
同じだから、共に生きるのではない。
違うからこそ、共に生きてゆきたい。
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