この作品に対する感想を書くと、感想文始まって以来の長文になりそうです。それぐらい様々な感想や解釈が、僕の脳裏を駆け巡りました。さんざん迷ったあげく、やはりまっ白で読んでもらいたいという気持ちが強くなって、紹介にならない一文を書くことにしました。
私は、前作の「アンダーグランド」「約束された場所」のサリン事件関連書から、彼がどう言葉を触り始めるのか、ものすごく関心がありました。作家、村上春樹が「アンダーグランド」という現実とのコミットを中心課題においた作品を経て、再びフィクションとしての物語を紡ぎ始めたのです。
やはり読んでみると、今までの春樹ワールドでは絶対使われなかったであろう言葉や文体・比喩が随所に見られて、徳さんは大変心騒ぎました。
現実と、現実を作っている言葉との間には、大きく深い溝が横たわっています。それは「私は、私です」という一文の意味する、はじめの「私」と、後者の「私」との違いにも似ています。
「現在」は、その違いが疑いようも無く白日の下に晒されてしまっているのです。「文学としての言葉」は寄る辺無きものとなってしまい、模索しようにも現実からはきっぱりと拒否されているのです。
ひと事で言うと「あちら側」と「こちら側」との間で、「作家自身が迷い・揺れ・不安定になっている作品世界」が、この作品の基本構造です。だから読者が途中で「こうだ」と断じて本を閉じてしまうと、全くその世界に触れもしなかったということになってしまうのです。お願いです。前半で本をやめないで下さい。(私もその誘惑にかられました。)
何を言っているか分からないと思いますが、とにかく読んでみて下さい。(そんな推薦文があるかよ!!)現代版、トルーマン・カポーティ「冷血」後です。
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