彼は1858年に生まれ、1919年に没しています。まず、この時代に驚いてしまいます。はっきり言って100年以上前の人ですよ!
しかし、この思想は、全く古くありません。むしろ、その当時より現代の僕らがどう考えればいいかを示唆してくれているようです。
19世紀から20世紀への移行の中で、世界はその相貌を大きく変えてゆきました。そのものが意味を持つ時代から、相対的な時代へと。その変化の立役者は「貨幣」なのです。ジンメルは「貨幣の哲学」で、貨幣の意味の深淵を覗き込みます。
<貨幣には顔がない>
<しかも無性格である>
この匿名性を持った貨幣は、あらゆるものの価値と等価になれるということです。この等価性を媒介にして、モノとモノの相対化が生まれたのです。
このことは同時に3つのことを意味していました。
1つは、そのモノの価値の絶対化という神話が終わったということ。
2つ目は、全てのモノが本来の価値ではなく、貨幣的な意味、つまり値段という価値体系の一部となってしまったことです。
最後に、貨幣が、そのモノが持っている「将来的有用性」を価値とみなした為に、そのモノの価値を「可能性」として表現することとなったことです。そしてこのことは、全ての価値が単なる「可能性」にすぎないことを僕らに教えることになりました。世界は、可能性という虚構なのです。
近代の思想では、人間は実体であると考えていました。何かを考える実体、行動する主体、それらとしての人間像があったのです。モノの価値の相対化の時代に、人間も決して例外ではいられません。人間も、様々なる関係性の中で出現するナニカであるしかなくなったのです。
もう1点、ジンメル思想でおもしろかったのは、その世界認識の方法です。彼は、社会関係(人間関係も含めて)は感覚的相互関係と、認識的相互関係との2面で成り立つと考えました。注目すべきは前者の感覚的相互関係で、彼は特に重視します。人は他者を知る前に、まず<感知>していると考えたのです。僕らは、他者を見て声を聞き、他者を匂っていることから始まっているのです。
あらゆる社会関係は、システムや機能だけではなく、感情や感覚のネットワークの中で成立していると説きます。しかもそれは個別であり、様々な感覚のバランスによって支えられている、不安定な世界なのです。個々人は、全く違う感覚を持っています。ということは、全く違う基盤において営まれている社会を、それぞれが持っているということなのです。共通する世界観の神話は終わりました。それぞれが不安定で、違う世界を抱えているのです。しかも「自分の世界」というよりも、「僕の不安定な世界」と「あなたの不安定な世界」の関係性で浮かび上がってくる、陽炎の様なものなのです。
|