地球生活記/小松義夫 福音館

「衣食住足りて・・・」という言葉がありますが、現在の日本での生活においては、この言葉が指し示す内容は、ほとんど死語に近くなっています。確かに大多数の人が、着るものや食べたり住むことにおいて、困難を伴わずに実現可能な社会になりました。それは皮肉ではなく、良かったと思っています。
しかし、(どうせ出てくると思っていたでしょう)本書を観ていると「ああそうか、実現しているということと、心楽しく生きるということは、別な次元で成立するものなのだな。」と思い至りました。

この本は世界中の家が収められた、徳さん好みの(!!)写真集です。早くも、徳さんの今年度ベスト10入りを確実にしました。だまされたと思って図書館、本屋で手に取って観て下さい。
アフリカの家々の美しいこと(いや本当に美しいのです)、地中深く住む人々(酔狂でなく、モグラ状の町なのです)、樹上・水上に築かれた生命の館・・・。
多分手に取った3人に2人は、財布の中身と相談するはずです。すこし高額なのは残念ですが、家に帰って部屋をぐるりと見回し、この空間がこうでなくて構わないことに気付き、腕組むこと間違いありません。
世界中にこんなにも多く、こんなにも美しい家がいっぱいあっても、あの子たちにとっては自分の家が《世界一》なんです。

ダブル・バインドを越えて /浅田彰 南想社

ダブルバインドとは、ベイトソンが分裂症患者のコミュニケーション形態の成立と病因について提出した概念です。簡単に言うと、抜き差しならない関係性のなかで、(例えば母と子とか)あるメッセージが伝えられます。
「私はお前のことを、心から愛しているのだよ」
そこで子どもが喜んで近づいてみると、目には嫌悪感が浮かんでいるし、口元にはひきつった表情が読み取れます。身体もなにかすっと避ける感じです。

子どもは、初めの愛のメッセージを受けとめればよいのか、後の相反するメタメッセージを信ずればいいのか分からなくなり、困迷を深めてしまうのです。そんな状況が反復されると、その子どもは情報(メッセージとメタメッセージ)の処理に障害をきたし、分裂病になってしまうというものです。その様な状況を、ダブルバインドといいます。つまり分裂病は、家族全体のコミュニケーションシステムの病理であると主張したのです。

1950年代に出されたこの有名な概念は、今現在も様々な場面で引用され、言及されています。その理由は、このメッセージとメタメッセージという構造が、言語だけではなく文化儀式や動物行動規範の中に、多く観察されているからです。このことの最も重要な点は、単純に1つのメッセージの中のメタファーを取り出して論じてみたり、コミュニケーションがある調和的構造で語られてしまうことを拒否しているとにあります。その組み合わせ(メッセージとメタメッセージ)がパラドックスをはらんでいて、二元論で語られる様々な現実用例(日常と非日常、意味と無意味etc)から飛び出すことに成功しているのです。

こんな風に説明すると、何かめんどうで難しそうですが、要は現実的の実相はダブルバインド状況という相反する要素が入り交じった状態で、僕らはこれらを選別しながら、うまく生きてゆく術を身につけていっているということなのです。
本書は対談も含めて随分と分かりやすく、初心者の入門書として書かれたのではないかと思われるほどです。しかしそこでの問題は根深く、重い現実をつきつけています。

「ねえねえ彼女、かわいいね、どこから来たの?」
「家。」
「・・・・・・・・・。」

彼の下心(メタメッセージ)は、彼女のメッセージのみ選別によって打ちくだかれました。世界が、この表層メッセージのみか、メタメッセージでの遊びに分かれてしまい、ダブルバインドという状況自体を否定しているように見えるのは、僕だけでしょうか。

買ってはいけない/「週刊金曜日」別冊ブックレット

各書店で売り切れ続出だという、話題の本です。それだけ消費者は、周りの環境問題に言い知れぬ不安を抱えている、ということだと思われます。
ひょっとしたら、そんな不安感に便乗した危機感扇動本ではないかと、眉に唾付けて読みましたが、どうもこの本の存在価値は、危険な商品群よりももっと別な意味があるようです。

情報社会とは、多量の情報の海であるということだけではなく、個人の幸福観や安心感を追求する生活を、幻視出来る社会になるということです。もちろん、単純なユートピアであるはずがありませんが・・・・
そこでは個々人の価値観が問われ、選択する自由度と責任性が生まれてくるはずです。自分が望む幸福観は、それを裏付ける情報欲求にその根幹が委ねられているとも言えます。
安心なものを買うということは、安心な情報を求めるということと同じなのです。物を買うということから、そのものの持っている情報・価値を買うという社会になってきたのです。その一方で、産業構造は生産重視の社会から循環型へと変換してゆき、消費者の価値基準のひとつに安全性と言う錦の御旗が握られることとなりました。

この本は、取り上げられた商品がどうのこうのというよりも、その商品のデーターカタログ本なのです。読者は、この商品にA物質が入っているというよりも、A物質はこの商品と他のこれとこの商品に入っていることを知るようになり、商品選別とは違った反転観で読み進めるようになります。

早速この本への反論本も出てきたようです。それで良いのです。僕らが知りたいのは、その情報なのですから。そんな議論が、不毛な責任押しつけ論や商品中心主義から自由になる唯一の道なのです。
あと140年ぐらい長生きして、公共の養老施設で「バカモノが!!」と怒りまくっていたい徳さんは、DNAが傷つくのが恐いのです。(充分不摂生してるくせに。)

パートナー/ジョン・グリシャム 新潮社

皆様にグリシャム最新作を紹介します。
もうグリシャム作品についての推薦の言葉は、僕自身飽き飽きしてしまいました。娯楽性に富み、なおかつ社会問題への提起も怠らず、全作トップレベルの出来に仕上げるとは、全く驚くばかりです。

巨額の金を奪取したまま行方不明だった弁護士が、ブラジルの奥地で発見されました。彼を巡る、いや、金を巡る関係者達は、それこそハイエナの様に色めき立ちFBIや国家中枢も巻き込んだ大騒動がくり広げられます。“グリシャム・マジック”と呼ばれる、謎が謎を呼びながらのどんでん返しのオンパレードに、読者はページから目も上げられず、ジェットコースター絶叫のお客よろしく、どこに従れてゆかれるのか皆目見当がつかないまま、問題のラストに導かれます。

全米で今回も大ベストセラーになり、そのラストをめぐって評価を二分した問題の「パートナー」是非お読み下さい。

出来ればあなたの「パートナー」と共に。

現代思想の冒険者たち01 ジンメル生の形式/北川東子 講談社

彼は1858年に生まれ、1919年に没しています。まず、この時代に驚いてしまいます。はっきり言って100年以上前の人ですよ!
しかし、この思想は、全く古くありません。むしろ、その当時より現代の僕らがどう考えればいいかを示唆してくれているようです。
19世紀から20世紀への移行の中で、世界はその相貌を大きく変えてゆきました。そのものが意味を持つ時代から、相対的な時代へと。その変化の立役者は「貨幣」なのです。ジンメルは「貨幣の哲学」で、貨幣の意味の深淵を覗き込みます。

<貨幣には顔がない>
<しかも無性格である>

この匿名性を持った貨幣は、あらゆるものの価値と等価になれるということです。この等価性を媒介にして、モノとモノの相対化が生まれたのです。

このことは同時に3つのことを意味していました。
1つは、そのモノの価値の絶対化という神話が終わったということ。
2つ目は、全てのモノが本来の価値ではなく、貨幣的な意味、つまり値段という価値体系の一部となってしまったことです。
最後に、貨幣が、そのモノが持っている「将来的有用性」を価値とみなした為に、そのモノの価値を「可能性」として表現することとなったことです。そしてこのことは、全ての価値が単なる「可能性」にすぎないことを僕らに教えることになりました。世界は、可能性という虚構なのです。

近代の思想では、人間は実体であると考えていました。何かを考える実体、行動する主体、それらとしての人間像があったのです。モノの価値の相対化の時代に、人間も決して例外ではいられません。人間も、様々なる関係性の中で出現するナニカであるしかなくなったのです。

もう1点、ジンメル思想でおもしろかったのは、その世界認識の方法です。彼は、社会関係(人間関係も含めて)は感覚的相互関係と、認識的相互関係との2面で成り立つと考えました。注目すべきは前者の感覚的相互関係で、彼は特に重視します。人は他者を知る前に、まず<感知>していると考えたのです。僕らは、他者を見て声を聞き、他者を匂っていることから始まっているのです。

あらゆる社会関係は、システムや機能だけではなく、感情や感覚のネットワークの中で成立していると説きます。しかもそれは個別であり、様々な感覚のバランスによって支えられている、不安定な世界なのです。個々人は、全く違う感覚を持っています。ということは、全く違う基盤において営まれている社会を、それぞれが持っているということなのです。共通する世界観の神話は終わりました。それぞれが不安定で、違う世界を抱えているのです。しかも「自分の世界」というよりも、「僕の不安定な世界」と「あなたの不安定な世界」の関係性で浮かび上がってくる、陽炎の様なものなのです。

現代思想の冒険社たち18 メルロ=ポンティ可逆性/鷲田清一 講談社

精神と物質、内部と外部など、伝統的二元論から西洋哲学が抜け出すために、多くの哲学者が思考をひっくり返し続けました。そして遂にその試みは、現代思想へとまたぎ越すこととなったのです。
メルロ=ポンティによって。
彼は、幻影肢を例に上げます。事故や戦争によって失われた手足が、痛んだりするあの症例です。もはや存在しない箇所が痛いとは、どういうことなのでしょう。いわゆる幻想なのでしょうか。しかし、ある求心性神経を切断するとその痛みが消えるのです。その意味では、この事象はあまりにも生理学的です。
ある日突然、負傷時の状況を思い出した時から、幻影肢が発生することもあるし、患者自身が切断の事実を認めることで、無くなることもあるのです。これは全く心理学的です。

つまり具体的存在である僕らは、精神と物質という単純な2元論的世界に生きているわけじゃなく、全く違う位相にいるのではないのだろうか。メルロ=ポンティは、この2元論を越える為に“身体性”を手に、哲学を出奔し始めたのです。

右手で左手を掴む。どちらが感じる側で、どちらが感じられる側なのでしょうか。
色覚に障害がある場合、1色1色脱色するのではないのです。色全体の差異が崩れているのです。

僕らは、二元論的存在ではなく、境界無き表裏であり、際限ない絡みの中にある何より<ナマの存在>なのです。