ある人から「徳さんの考えを聞くと何となく分かるんだけど、具体的にどう考えていいか分からない。」と問われました。
このような意見、質問は大歓迎です。
一方通行的な回路は、送る方も送られる方も飽きてきて、動脈硬化による臨終となるのが落ちです。「徳さんの感想文」を「徳さんたちの感想文」にするべく、参加を強く希望します。
少し彼からの問いかけを、考えてみましょう。
確かに僕は執拗に、いかに今迄の自分達の考え方が時代や言語などに作られ、制限されたものであるのかということを言ってきました。
じゃあそれ以外のどんな思考方法がありえるのか、という問いが生まれるのは当然です。
しかし、その前に考えてほしいのは、自分の考えとは何かということ、またそれを考えるということは、「自分の考え方」の外部に出なければならないということです。昨日や今日ポッと与えられたものじゃなく、生まれてこのかた数十年自然に築き上げてきた考え方の「外」に出るとは、どういうことでしょう?
それは、全く違う考え方を思い付くことではないのです。まずは、自然に考える自分の“考え方”に気付くことだと思います。
自分の目では、自分の目を見ることは出来ません。しかし、鏡に映せば目が見えます。これは外部に出た自分の目を見ているとも言えるし、鏡の視点で自分の目を見ているとも言えます。いずれにしても目の外部に出て初めて、目を見ることが出来るのです。
不定型でもある“考え方”を見るのは容易ではありません。しかし、様々な場面、角度から“考え方”を見つめ直し、気付き続けるしか方法はないのです。
ではそうやって、少しずつ獲得した視界から見る僕らの世界は、どんな彩りの世界なのでしょうか。今とは全くの別世界なのだろうか。残念ながら私たちは、漫画のような突然の覚醒を得る機会はほとんどありません。新しい考えは、古い考えの変質でしかないのです。常に、出生する場所は、古い温床以外ないのです。
僕らは、ある日突然解脱して、全く違う思考パターンを獲得することなんかありません。イジイジ、ウジウジ考えたり、泣いたりしながら、昨日の自分の姿を見て、少しずつ少しずつ今日の自分を納得してゆくんです。
冷静に言えば、僕らの知識は西洋の知に大きく依存しています。そして、私たちが、その西洋知の代表である科学を否定して生きてゆくことが出来ないのも明らかです。僕が複雑系のことを言い続けるのは、この科学の思考方法に気付き、その外部に出るためなのです。そしてなお且つ、科学の本を読むのは、安易に違う思考方法に逃げ込まないためです。この往還をバランスよく繰り返してゆくことが、唯一の可能性のような気がします。
神秘主義や精神世界のある部分は、今後、科学的にも納得に足る領域となってゆくでしょう。もちろん別のある部分は、科学では証明できない領域となるやかも知れません。しかし、現段階では、それら全てをひっくるめて「新世界」を語るには疑問なのです。当たり前の思考回路を、どこか停止してしか描けない世界は信用しません。古い考えを引きずってしか、明日の考えを生きられないから。
本書は、近年批判的に言われる科学者からの反論です。人間は、常に観察して認識する。それが、考える基本であると論じています。科学は、結果としては多くの間違いを生むが、方法は人間の思考の理にかなっていると彼は強調します。
“考え方”の外部で観察し、“考え方”を考える。全く、科学的です。
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