溺レる/川上弘美 文芸春秋

私は、知らぬうちに彼女のファンになってしまったようです。
日頃はこの女性・男性とかの区分けに、すこし緊張するのですが、彼女の作品を読むと「う〜む女性は凄いな。こりゃ完敗だな。」と心が頷いてしまうのです。
男性のセックスは獣に行き着くのがせいぜいですが、女性の交合は魂をつかみにかかります。まさに漱石の「夢十夜」の女が、100年後に百合として咲いたのかもしれません。

別冊太陽発禁本/城市郎コレクション 平凡社

本とは、本来危険なものなのです。
そのなかに納められた情報が危険なのではなく、本という“そのもの”が危険でなければならないのです。
本屋が、なんと健康的になったことか。

「犠牲」への手紙/柳田邦男 文藝春秋

死を考えることは、生を考えることだとよく言われます。なるほどなと頭では分かりますが、本当のところよく分かりません。
死が何なのか、生が何なのか分からないのに、語呂で気分よくしている自分が恥ずかしいのです。そんなことを考えずに、毎日ナントカ生きています。このナントカだけは、実感を持って頷けます。
その頷きの中に詰まった諦めや怒りや哀しみ、退屈や不安や恥じらい、嫌気や興奮や焦り、期待や嫉妬や喜びそれらいっぱいは、分かります。
でもそんなことも考えずに、その中をナントカ生きています。

家族が自殺に追い込まれるとき/鎌田慧 講談社

1998年の自殺者数は3万2千863人でした。
365日間、途切れること無く毎日、100人近くの人々が自殺し続けました。そして、24時間中絶えることなく1時間に約40人の人々が、自らの死を選択していたのです。
今年は、それを上まわっていると言われています。今、この瞬間にも日本のどこかで、ビルの上から寒い下界を見おろしている人がいます。自分の首に、ロープをゆっくりとまきつけ始めている人がいるのです。
これは、異常です。

この事実は恐るべきことだと、私は思います。
敏感に感じ取り、深く沈思するべきです。

近年不可解な事件や現象が多くみられて、やれ世紀末だ、精神の荒廃だとかで騒ぎたてていますが、私は現在を象徴するものは、「環境ホルモン」とこの「自死3万人」だと考えています。

大不況の中、民間企業をはじめ中高年者には未曾有のストレスが襲いかかっています。そのための「過労死」も確かに増えているでしよう。
しかし、1997年から約40%も自殺者の数を押し上げたことは、これだけでは不十分だと思います。
過去にもあった失業、組織からの孤立、過労が、ここに来てなぜこのような多数の死と直結してなければならないのでしょうか。また、時代的な精神のどん底は、幾度となくあったでしょう。
しかし、このようにものすごい数の人が死に急いでいた時代はないのです。

何故今なのでしょうか?
いや、それは逆なんです。「今」だから死んでゆくのです。それが何故なのか私たちがきっちりと考えない限り、この「異常な死」は増え続けるかもしれないのです。
この何故を考えるに当たって、私たちは2つのことを混同してはならないと思います。それら現象の背景であり深層である「要因」と、具体的行為におよぶ脳内反応の「うつ」です。

自殺に向かったほとんどの人は、一時的な意味も含めて「うつ」的状態だったと考えられます。「うつ」は近年では特にめずらしい病ではありません。WHOでは「気分障害」と表現を変えたぐらいに、一般的にみられる反応だと考えられているのです。
人は、近親者を失った時や大きなショックに出会った時に、自然と「うつ的状態」になるのです。これは、身体が持つ保身的メカニズムだと考えられています。自己における重大事件が起こると、身体は取りあえずブレーキを踏むのです。その状況に対して加速して回避するのではなく、減速し時間をゆっくりと流れさせて、早急な決定を避けようとするのです。それが身体が持っているシステムなのです。

中高年男性にとって「仕事」とは「自己」と直結するくらい大きなウエイトを占めています。それが現実だと思います。それが良いとか悪いというのではなく、それが事実だし、そこから考えなくては間違えると思います。
その仕事が奪われたり、うまく行かなくなったりする中で、「自己喪失感」に支配され、「うつ」的状態になったのです。

我々が考えなくてはならないことの一つは、この「うつ」に対する偏見を取り去り、きちんとこの危険性に対処することです。誰にでも当たり前に起こる脳内反応である「うつ」に対して、きちんと理解すべきです。そしてもう一つの、それを引き起こす背景の「現在」を考えなければなりません。
この2つを混同することなく考えることが、自死3万人に対する唯一の道だと考えます。

実行者の数十倍は、未遂者・予備軍がいると考えられています。その自殺者には必ず、家族・友人・近親者がいるのです。
突然訪れる「隣人の死」は、今この瞬間死への一歩を踏み出している隣人であり、「あなた」なのです。

子どもを殺す子どもたち/デービット・J・スミス 翔泳社

(97年9月感想文)

1993年2月、イギリスで2歳の幼児が行方不明になり、後日変死体で発見されました。そして、容疑者として、10歳になる二人の少年が逮捕されたのです。

本書は、ジェームズ・バルガー事件についてのノンフィクションです。400ページを超す分量を、考え得る限り事実で埋め、微に入り細に入り調べつくし、事件当日を再現しながら裁判記録も収録しました。多分、起こった事実は最大限に表現されているでしょう。
しかし、「なぜ」という最初に浮かんだ疑問はさっぱり分からないのです。日本でも神戸での事件、多数のいじめ事件、幼児・女子中・高生殺人事件など、10年前とは何となく印象が違う、どこかゾッとするような事件が相次いでいます。膨大な情報が流され、限りなく再現化を試み、解釈しようとしています。しかし、「なぜ」という最初の疑問はさっぱり分かりません。

多分、僕らが持っているこのアプローチの仕方は、完全に的が外れているのです。事件に対する僕らの想像力は全然届いていません。それはきっと、事件の根底が想像力を発する以前にあるからです。

あなたと私の根底にすでに横たわっていて、疑問以前に「そいつ」はそこに「いる」のです。