(97年9月感想文)
最近話題になる事件は、暗く形容し難い嫌な気分になるものばかりで、気が滅入ってしまいます。表現出来ない嫌悪を表現しようと、多くの人が躍起になって論述していますが、ことごとく何か得心しないのです。この嫌悪は、語り尽くせないが語らずにおられない不安を栄養にして、増殖し続けています。
幼い子を取り巻く状況は「知らない人について行くな」ではなく、「知っている人に気を許すな」となり、人間不信を植え付けてゆくばかりです。人間は、もう他者との関係性を持ちえなくなったのでしょうか?
ハーバーマスは「コミュニケーション」を、人間について考える上での根幹に据え、しかも未来への希望を託しました。コミュニケーションが疑念に晒されている今こそ、ハーバーマスを僕らは再考しなければならないのかもしれません。他者とのコミュニケーションを奪われ、ガタガタになってしまった僕らは、正に彼の言う“間主観的存在”なのだと痛感してしまいます。
主観や意識を中心に考えてきた哲学は、「私」という主体をひたすら考えてきました。しかし僕らは、当然ながら単独に生きているわけではありません。常に他者や世界の中にいて、その関係性の中で初めて「私」が浮かび上がってくるのです。
自分の内的世界と社会(システム、他者など)は、緊密な影響関係にあって、その時その場で生成されています。つまり、主観と主観の間としかいいようがない存在なのです。
人間とは、常に「コミュニケーションするもの」を指すのです。ハーバーマスの様に、コミュニケーションの方向性(討議→同意)や可能性を、私たちは単純に信用できないことは身をもって知っています。
しかし、私たちが新しいコミュニケーションの在り方を模索せざるを得ない崖っぷちに立たされていることも確かです。
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