死の蔵書/ジョン・ダニング 早川書房

作品が時代や世界から自由でないのと同じで、我々がその作品に接するに当たって、完全に自由であるということはありえません。私たちが作品を読むと言うことは、自分の固有な解釈でその作品を構築していることなのです。裏返して言うと、この不自由さが読書の快楽だということになります。

ある主婦が、作品の中の主婦を読む時に、自分の実感に照らし合わせた「主婦」のもつ情感や鬱屈と共に色付けしてしまうことは避けられません。そのような共感やイメージが、作品の細部を形作ってゆくのです。
この本には、その意味で古書籍商である読者と、それ以外の読者では全く違う作品として映るはずです。世界が目の前の焼酎と、それ以外で成り立っているのと同じくらい自明で、かつ歴然とした境界がそこには存在しています。
勿論、どちらか良い読者となるかなど全く意味が有りませんが。

古書籍商は、古書籍商としての読みに支配され(心の底からの同感と、わき起ってくる現実感。これは現在でも著者自身が古書稀覯本専門の書店を経営しているので、この世界の底流をあますことなく浮かび上がらせてくれています。)一般の読者は、古書籍商連中の顔を思い浮べては、決っして彼らから漏れ出てこない本心を、うかがい知ってはほくそ笑みます。

徳さんが宣言しておきます。古書の世界はデンヴァーも日本も変わりありません。
“あなたたちの直感は正しい!!”と。

本書は、1997年度「週刊文春」「このミステリーがすごい!」海外部門第一位に輝き、次作の「幻の特装本」が1998年「週刊文春」海外部門で、またもや第一位となり、同著者の2年連続の受賞となりました。実のところ後半にさしかかるまでは、古書籍界の話は別にして凡庸なハードボイルドと思っていましたが、加速度はどんどんと上がってゆき、ラストは瞳孔が開いたままになってしまいました。
本書にちらばった作家・書名の数々は、本好きには垂涎ものです。
登場人物の一人が言います。
「いい本を一冊買うのと、上等なステーキを食べるのと、どっちがいい?
朝昼晩、いつ訊かれても、おれの答えは同じだよ。」

子どもの虐待/森田ゆり 岩波ブックレット385

自分の子どもや店に来る子どもに対して、本気で腹を立てることがあります。(もちろん何時もではありませんが・・・)諌める形を取りながら、自分の心に急速にいじめ心が広がるのが自覚できるのです。それはもう自分の意志を超えた、激情によるものである気がします。
そして、同時に時代もが、この激情に駆られているような気もするのです。

子どもへの暴力や、虐待に対して非常に敏感になるのは、そんな自分の感情を憎むがゆえなのかもしれません。

ハーバーマスコミュニケーション行為/中岡成文 講談社

(97年9月感想文)

最近話題になる事件は、暗く形容し難い嫌な気分になるものばかりで、気が滅入ってしまいます。表現出来ない嫌悪を表現しようと、多くの人が躍起になって論述していますが、ことごとく何か得心しないのです。この嫌悪は、語り尽くせないが語らずにおられない不安を栄養にして、増殖し続けています。

幼い子を取り巻く状況は「知らない人について行くな」ではなく、「知っている人に気を許すな」となり、人間不信を植え付けてゆくばかりです。人間は、もう他者との関係性を持ちえなくなったのでしょうか?

ハーバーマスは「コミュニケーション」を、人間について考える上での根幹に据え、しかも未来への希望を託しました。コミュニケーションが疑念に晒されている今こそ、ハーバーマスを僕らは再考しなければならないのかもしれません。他者とのコミュニケーションを奪われ、ガタガタになってしまった僕らは、正に彼の言う“間主観的存在”なのだと痛感してしまいます。

主観や意識を中心に考えてきた哲学は、「私」という主体をひたすら考えてきました。しかし僕らは、当然ながら単独に生きているわけではありません。常に他者や世界の中にいて、その関係性の中で初めて「私」が浮かび上がってくるのです。
自分の内的世界と社会(システム、他者など)は、緊密な影響関係にあって、その時その場で生成されています。つまり、主観と主観の間としかいいようがない存在なのです。

人間とは、常に「コミュニケーションするもの」を指すのです。ハーバーマスの様に、コミュニケーションの方向性(討議→同意)や可能性を、私たちは単純に信用できないことは身をもって知っています。
しかし、私たちが新しいコミュニケーションの在り方を模索せざるを得ない崖っぷちに立たされていることも確かです。