空想科学読本1・2/柳田理科雄メディアファクトリー

僕をよく知っている人は容易に想像できると思いますが、この手の本は大・大・大好きなんです。
中学、高校時代授業を受けながら、「こんなことがなんの役に立つんだよ〜」と呟いていたでしょ?
私もそうでした。
今でも疑問を持っている知識、間違っていた知識(歴史・・・)もありますが、少なくとも物理や科学は(勿論これもどんどん修正されてゆきますが・・・)これらの本を読むことによって、まさにその世界に生きているのだなと実感できるんです。

読んでもらえれば分かりますが、わかりやすく抱腹絶倒の本です。決して夢が壊れることはありませんし、自分の懐かしい思い出のヒーロー達が、頭を掻きテレ笑いをしながらテクテクと歩み寄ってきてくれます。

新たな夢の再演です。

顔面漂流記アザをもつジャーナリスト /石井政之 かもがわ出版

この本に、実はかなり時間をかけました。いや、かけざるを得なかったのです。
というのも、著者がギリギリと問い詰め、これでもかこれでもかと投げかける「顔」に、私は全く無知で無自覚だったからです。1ページ1ページ、彼のいう「顔」と言う言葉を、想像すると同時に戦慄し続けていました。

人は、それぞれ自分固有の問題としてふんばっているものがあります。それら大概は、他者にとってたいしたことでないのです。僕らはその1点について、自分のことでは必死に固執しますが、他人のことについては余りにも無頓着なのではないでしょうか。
何気なく投げかける言葉、ちょっとした態度、自己弁護にのっとった判断、周りに同調して責任放棄している問題意識など、目の前の「その人」という具体的な存在への想像力が欠けているような気がします。

自分に対しても他者にも、寛容さが無くなってきたのかもしれません。それは突き詰めて言えば、言葉に対する想像力が貧困になっているのだと思います。

あなたにとって「顔」とは、どのようなものですか?

人間にとって顔とは何か /レイ・ブルニコラ・ラムズイ 講談社

素人判断で言えば、人が二立歩行しはじめた時に、コミュニケーションの掲示板が身体の前面に広がったのだと思います。
それまではサルのお尻のように色彩・形状や匂いを持つ後部と、両手をついているが故に下向きになっている前面が主なものでした。立ち上がったことによって、両手が使えるようになり脳の発達も促されると同時に、頭蓋骨を上部に持ちあげることで気管支が延びてきて、微妙な音声変化が可能な声帯構造となり、発声言語がコミュニケーションの道具として急激に台頭してくるようになりました。
また、それと共に、発音の多様性を可能にするために顔面の筋肉や神経が発達して、より微妙な表現が出来るようにもなってきました。そして、この面積の拡大と平行して、そこに織り込む情報の多さを必要とするコミュニケーション社会の発達があったのです。

それが故に人は、「顔」に特別な地位を与えたのではないかと僕は思っていたのです。
そのことに対する信憑性は、生物学の方からきちんと調べてゆかなければ分かりませんが、今の時点ではそれらに関する書物が見つけられなかったのでなんとも言えません。
しかし、問題の本質はそことは別のところにあるのだということに気付かされたのが本書です。

この本は、容貌について社会心理学的に研究された先駆的な学術書です。前書の石井さんの本で知ったのですが、日本ではほとんど問われることが無い容貌に対する研究も、諸外国では盛んに発表され、全米的な支援グループもあるといいます。日本でも今後、これらの支援グループへの関心が高まってゆくことを希望すると共に、自分でも考え続けたいと思います。

副題が「心理学から見た容貌の影響」とあるように、僕らが刷り込まれ自然に感じてしまう心理的作用を膨大な資料と実験や実例を元に、様々な角度から炙り出してゆき、その結果浮かんできたのが、
「外見がどちらかの極にある人たちを、他者がステレオタイプ化(固定された型にはまった見方)された期待通りに扱うことで、その人たちに期待された通りの行動をとらせるようにしむけてしまう。いったん行動が誘発されれば、行動は、ステレオタイプ化された集団のメンバーの自己観となって、こころの中に定着する」「その結果、実際は状況が誘発した行動を、自らの意志によるものだと思ってしまう。」

これは、どちらかの極の人などという狭い理解で考えるべきではなく、ステレオタイプ化されて行くイメージを、当然理の流れだと考えてしまう私たちの問題なのです。
「美しいものは良である。」「醜いものや欠損は悪である」また「美しいものは悪である。」「醜いものや欠損は良である。」が引き起こす安易なイメージ化が、問題なのです。

あなたにとっての、当たり前とは何ですか?

政治的に正しいおとぎ話 /J・F・ガーナーDHC

(97年8月感想文)

アメリカでは80年代ごろから、PC(PoliticallyCorrect)運動が盛んになってきました。直訳すると「政治的に正しい表現」ということになりますが、マイノリティ(少数派、少数民族)の立場に立って、差別や偏見による言語表現を考え直そうとする運動です。
この運動は様々な問題を提起しながらも、確実に成果を上げてゆきました。
この成果(!?)の中で“過剰なPC”が産声を上げ、それが新しい差別の問題を生み落し始めたのは、考えてみると当然という気もします。この過剰なPCも含めて、PC運動は注目されているのです。

差別問題は単純に、差別した差別されたの関係ではありません。また、多数・少数の問題だけでもありません。
差別は、人間の「差異を認識する思考方法」を問題の底に据えて考えないと、全てダメだと思います。日本でこそ、この本がきちんと検討されなければならないのです。
作家たちは「断筆宣言」なんかやってる暇があれば、このような本を書くべきなんです。

一読してもらえば分かりますが、差別や偏見という問題が持っている“何となくイヤダナア”“めんどくさいな”というイメージをきちんと解体して、本当はこんな所にあるんだよ、と教えてくれています。ブラックユーモアというスパイスを加味させて。

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