(97年8月感想文)
たかだか150年前は、ドップリと江戸時代だったのです。この江戸時代は、日本ひいては自分の中の考え方のヘソを知る上でも、重要な時代だと考えます。もちろん江戸が完全に純粋な日本文化であったわけではありません。西洋やアジアの情報は常に入ってきていて、その流入を前提とした文化が日本文化の本質なのです。情報の処理の仕方、無視の仕方、アレンジ等、それらがいかにも“日本”という特色を表しているように思います。
僕の中での気が付かない「日本の発想」(嫌になることも多いですが、新鮮な驚きに満ちていることも結構あるのです。)を、江戸の文化を知ることによってポンと膝を叩けたらと思い、けっこう熱心に同類の本を読んでいます。
いやあ、これがまた面白いんですよ。
もっぱら考証学的な書物を好んで読みますが、その中でもこの林美一氏、僕は大変信頼していますし、特に浮世絵に関しては、第一人者だと確信しています。愚直なまでに史料にあたって、しかもその1点だけではなくその時代の人々の意識や気持ちに想いを馳せ、文化として語ってくれます。
本書は、様々な階級の人々のとある1日を生き生きと描いているのですが、長屋の住民たち、岡っ引き、旗本、将軍など、読んでみると驚くようなことばかりです。テレビや時代小説がいかに出鱈目か、筆者が腹を立てるのももっとものことと、大きく頷いてしまいます。とにかく全く違うのです。
例えば江戸の時刻計算は、「不定時法」というものですがこれは、<日の出から日の入りまでの時間>を刻の数で割るのです。
つまり、昼と夜の1時間の長さが違い、しかも毎日1時間の長さが変化するというものです。
文字通り日の出とともに1日が始まり、洸太郎が苦労している定刻の何時何分という勉強も、そこでは全く意味がありません。呼吸をしている生活が、世界の物差しなのです。
・・・そんな瓦ぐらい、どうでもいいじゃないかというなかれ。(中略)それが封建社会の階級観念というものである。・・・
このタンカに裏打ちされた“江戸”は、想像以上に刺激的です。
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