いきなり「徳さんの2000年ベスト10」当確がでました。
新聞の記事を読み、すぐに図書館に注文して読み始めるやいなや、自分の蔵書にすべく新刊本として買い求めてしまいました。(自分でこの流れを書きながら、なんともケチ臭いな〜と情けない気持ちにもなってしまいましたが・・・)
まあそれはいいとして、欧米の文才ある科学者の書物の面白さは半端でありません。巧みな言い回しとふんだんなユーモアー。しかもその論旨の驚くべき世界は、鬱々と悩み這いずり回っている私にとって一筋の光明を見る思いです。
序文を書いているオリヴァー・サックス(「妻を帽子と間違えた男」は傑作です)ひところ私が完全にはまってしまったS・J・グールド(今でも新刊が出ると必ず読んでいます)。また、学生時代に決定的に影響を受けたR・ドーキンスの世界観。宇宙論で言えば方程式は分からないまでもその思考実験には完全に参ってしまったアインシュタインやホーキング、カール・セーガン。また「シュレディンガーの猫」も今となっては脳理解の一助となっています。
そしてこのラマチャンドラン氏は、間違いなくこの世界に新たなページを加えたと言って良いでしょう。
存在しない手足が痒くなったり痛くなったりする幻肢。存在しないものが痛い?無い指がなにかを握る?
ある患者を調べてみたところ、数年前に失った左手の感覚地図がなんと頬と上腕部に発生していたのです。しかもそれは偶然ではなく、ある必然性を持って・・・・
人間の視野の中には、何も写っていない盲点というものがあります。
・・・・えっ。目の前のどこにも何も写っていない箇所なんてありませんよ?
しかし、網膜には確かに視神経が無い1点があるのです。
・・・・とすると、その暗黒のその空間を私たちは勝手に何かで埋めているのですか?
その空間への書き込みには、何か法則があるのでしょうか?垂直と水平の線がずれて交わるとき、どちらを優先させるのだろう?
事故によって視野の中に大きな暗点が生まれてしまった彼が、特に困ったことはトイレでした。彼がトイレを利用する時に、WOMENのWとOが盲点に入って消えてしまい、間違って男性用だと思って入ってしまうというのです。
・・・僕らはWとOを書き込んでいるの?
半側無視という症状もあります。
視野の半分の情報を無視して認識するために、花の絵を書いてもご飯を食べても、半分の花びらで書き終えたり、半分食べてお代わりしたりするんです。患者さんに、その見えていない側にポストを置いて投函してくださいと指示すると「分かりません。」と言いながらまっすぐに手紙を投げ込めるのはなぜ?
意地悪で投函口が縦のポストを置いても入れ損なうことはありません。視覚として認識していないのに・・・。
また、麻痺している半身を本人は認められず、動かない片方の腕を色々な理由をつけて弁護したり、ある時はその腕を他人の腕だと主張する人もいます。(本気なんですよ!)その人たちに、拍手を要求したらどうなるか?
脳のある箇所を刺激すると、宗教的カタストロフィーを感じるという。ついに私たちは、神の所在地を見つけることが出来たのだろうか?
多重人格障害の人が、別の人格になっているときに目の色までもが変わるのはなぜか?
著者は、その他多くの摩訶不思議な体験を持っている人たちを紹介すると同時に、彼らに深く身を沿わせてゆきます。
われわれが考えたり、認識したりするのは脳の「ある経路」を経たときだけの限定されたものなのです。脳が持っているそれこそ未曾有の経路にとっては、システムnぐらいの意味しかないのかもしれません。「私」とか、「認識」「世界」「存在」なんて、このシステムだけの限定品なのです。
しかし、著者はここで開き直ることはせず、もう1歩踏み出してゆきます。
−−私は脳科学だけでこの問題に答えが出せるとは思わない。しかし、問題を提起できるということそのものが、私たちの存在のもっとも謎めいた局面だと私は思う。−−
本書では、長年私のポケットの中で疑問符を付けられたまま眠っていた多くの小石が、柔らかな香を立てて消え去ってゆきました。
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