少し前に大ベストセラーとなった本書をようやく読みました。
大野さんの本は、学生時代に日本語論などは読みましたがこのようなベストセラーを引き起こすとは・・・
橋本進吉・時枝誠記そしてこの大野さんと続く国語学の王道の本が、なぜ今?
「なぜ?」これがまず読む前に私が感じたことでした。
とにかく売れています。しかも長い期間で。
ということは、イッパツ花火ではなく、何らかの理由がそこにはあるはずです。
それを少し考えてみようと思います。
まず第一に、題名が「練習帳」ですよ。
そうすると、これを手にとる人たちの目的は簡単です。
自分の文章がもう少し上手くなりたい、という一念です。
中身はともかく、それこそ「日本語論」でもないし、「日本語概論」や「日本語の真理」「日本語構文」という表題ではなく、練習帳なんです。
人知れず練習すれば、誰だって少しは向上するのを保証してくれるのが、練習帳の大儀ではありませんか。
そうか、日頃使っている日本語が上手くなりたいんですね。
それは、私も切実に感じます。上手くなりたいです!
でも日本語は意識しなくても使えるし、日常会話で困難な状況に置かれているわけでもありません。
では上手くなりたい欲求にかられている人たちが、なぜこんなにも多くいるのでしょうか?
一つ考えられるのは、インターネットやメールの普及だと思います。
メールといって気軽に書いてはいますが、これは形態としてはメモに近い手紙を次々と繰り出しているのと同じです。
私は1日に数十通とメールを出していますが、今までの人生でこんなにも文章をしたためていることはありませんでした。
また他者からはその数倍のメールが届くのですが、他人の文章というものはどういうわけか上手に感じしてしまうんですよね。
嗚呼、もっと上手にメールが書けないかな〜とか、どうも思っていることが上手く言葉にならないしピタッとくる言葉が思いつかないんだよなとか、敬語や[は]と[が]の使い分けがいまいち自信がないなとか、いつも感じています。
きっと同じように感じている人が、ものすごくいるのではないでしょうか。
そのような人が、少しでも上手な表現をしたいと願っているのだと思います。
だとすれば、このごろの若い者は本を読まないとか、文章が下手だとかよく言われますが、メールを書き慣れて、しかもそれにジレンマを覚え膨大な言葉を生んでいるという事実は、本当は良いことのような気がします。
自分の気持ちや考えを言語化するということは、思考する基本だし、言葉に対する欲望を掻き立ててゆく必要不可欠条件だと思うのです。
短縮した言葉や、流行の言葉がたとえ眉をひそめるような言葉であったとしても、その言葉を生み出す前の躊躇や、言葉探し、ものすごい集中力から打ち出される指先の反復運動は、白紙を前に基本構文をなぞる世代の思考とは明らかに違う「世界」を準備しつつあるのではないでしょうか?
ひょっとすると、あのコンビニやバス停の前で必死に携帯電話に打ち込んでいる姿は、明るい未来を象徴しているのかもしれません。
とはいえこの日本語練習帳を読むと、つくづく「徳さんの感想文」は悪文の限りを尽くしているなと反省してしまいます。
しかし本当のところは、キーを打ちながらちょっと待てよここでこの言葉は・・・と立ち止まりはするのですが、代わる言葉も思い浮かばず、「ええい!まあいいや。」とやっつけてしまうこの生産者の姿勢に、根本的な問題があるのかもしれません。
となると、ここ当分は悪文の列記が続くこととなり、皆さんにただ慣れていただくしかないようです。
|