(97年7月感想文)
私は、今日からバタイユの思想様式に下ってしまったことを宣言します。
断片的に僕の中で培われていた考えは、本質的にはバタイユ思想で語られていたのかもしれません。
そうなるとこれから僕の闘いの相手は、バタイユ思想ということになります。
人が何かを“行なう”こと、この行為は何を意味するのでしょうか?
行為とは、その行為の結果が将来の自分に繋がっていることを“想定”していることに他なりません。
その結果が自分と結びつけられ、所有されて初めて「意味あるもの」となるのです。
喉が渇いて水を飲む行為は、喉が渇いたと言う事に意味が発生し、それを満たすために活動する、それが行為なのです。
これは動物から人間が人間化する大きな要因なのですが、この観念は自分と結び付けられた「意味のあるもの」を中心にすえた「人間の思想様式」の根幹を形成しました。
つまり我々の<知>的思考の基盤は、「自己像」にとっての欠如要素を認識し、それを「満たせるもの」=「意味あるもの」と見出し、「自己像」と必然的な関係を意味付ける観念なのです。
これは同時に、「意味あるもの」と「意味なきもの」を規定します。
これがあらゆる基準・評価の初源なのです。
これらの思想様式が人間化の初源であるが故に、その事の客観化は得にくく対象化し難いのです。
それらは強固に、思考や制度の前提となってしまっています。
また、欠如を満たそうとする情念は、より「もっと」を産み、「もっと」が持つベクトルは、<至高であろう>とする願望を生みます。
それは、個の規定と同時に宗教・国家等の原型を生み出しているのです。
別の面から考えて見ましょう。
私達は、言語のもっている仕組みや効果が「思考の前提」であることに無自覚です。
言葉を変えると、<私>は、日頃自由に思考しているものと感じていますが、それは「既に語られ、語られつつある世界の内側」にいるにすぎないのです。
同様に、「私」という「主体」もまたこの「尺度を暗黙の前提にして測り、評価し共約している」世界内の必要要素でしかありません。
つまり、「私」=「主体」がいてその対象としての世界があるのではなく、「共約の世界」の為に自己同一な「私」が必要なのです。
では、どうしたら「私」の外に行くことが可能なのでしょうか。
バタイユは「消尽」「濫費」「非知」を提出します。
「意味あること」を生む思考の外へ、世界の外部へ、決して完了し至ることなき道を「反復」せよ!と言っているのです。
「私」の規定・思考様式・認識方法を止むことなく変え続け、常に自らに異議を提出し、無限に終わることなく自らを消しては書き、書いては消す運動に自らを投入するしか無いのです。
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