いつでも会える /菊田まりこ 学研

人はある日突然、死と出会います。
前触れがあろうがなかろうが、基本的には関係ありません。
死の訪れまでは、生の世界の問題なのですから。

今までの「生の世界」すべてを一気に覆い被せてしまう「死の世界」を、人がどう受け入れるかは心の一大重労働です。
他のことなど考えられないし、頭では分かっていても心が動き出しません。
目の前に広がる世界は、昨日までの世界と違って見えるし、その世界とどのように繋がればいいのか分からなくなってしまうのです。

しかし、そんな時間を急いではいけません。
あなたの受け入れ方が、きっと見つかるはずです。
その死とともに、あなたが歩んでゆける世界が。

そして子ども達も、その例外ではありません。
子ども達は、小さな心を震わせて一生懸命にその宿題に取り組んでいるのです。

1999年度ボローニャ児童図書展でのボローニャ児童賞・特別賞を受賞しました。

東電OL殺人事件 /佐野眞一 新潮社

この事件は、正直のところ全く念頭にありませんでした。
そのような事件があり、世の中で好奇に満ちた報道がなされていたのは知っていましたが、それ以上知ろうとは思わなかったのです。
別にあっても不思議でなく、珍しくもないという理解があったからです。
昼間は企業のOLで、夜になると売春婦になる女。
いるんじゃないですか。
いるだろうし、それぐらいの自己性の選択は、可能になっていると思っています。
それよりも昼と夜の対比や、OLと売春婦の対比に固定的な発想の貧困をみて嫌悪感を覚えていました。

しかし、貧弱だったのはむしろ私の方だったのです。

早朝からの仕事が終わると毎晩円山町の暗い路地裏に立ち、道行く老・若・国籍関係なく男に声をかけ、セックスを誘います。
露骨に嫌な顔もされるし、酔客の手慰みにもなったでしょう、身の危険を感じて全裸でホテルを逃げ出したこともあります。
それでも彼女は一人電車に乗り、車窓に流れるネオンの川を眺めながら円山町に向かったのです。

雨の日には傘を差し、雪の日にはコートの襟を立て、都会熱にうだる夜は流れる汗が顎から滴り落ちる日もありました。
そんな彼女が自らを律していたことは、毎晩4人以上の人とセックスをする。そして必ず最終電車に乗って、家に帰る。
これだけは必死になって守りつづけていたのです。

あの晩を除いて・・・・


今晩も、もう一人の渡辺泰子が辻に立ち、「ねえ。ねえ・・・」と声を掛け続けています。

無神学大全内的体験 /G.バタイユ 現代思朝社
雑誌ユリイカ特集バタイユ /1973.4 青土社
現代思想の冒険者たち(11)バタイユ消尽 /湯浅博雄 講談社

(97年7月感想文)

私は、今日からバタイユの思想様式に下ってしまったことを宣言します。
断片的に僕の中で培われていた考えは、本質的にはバタイユ思想で語られていたのかもしれません。
そうなるとこれから僕の闘いの相手は、バタイユ思想ということになります。

人が何かを“行なう”こと、この行為は何を意味するのでしょうか?
行為とは、その行為の結果が将来の自分に繋がっていることを“想定”していることに他なりません。
その結果が自分と結びつけられ、所有されて初めて「意味あるもの」となるのです。
喉が渇いて水を飲む行為は、喉が渇いたと言う事に意味が発生し、それを満たすために活動する、それが行為なのです。
これは動物から人間が人間化する大きな要因なのですが、この観念は自分と結び付けられた「意味のあるもの」を中心にすえた「人間の思想様式」の根幹を形成しました。

つまり我々の<知>的思考の基盤は、「自己像」にとっての欠如要素を認識し、それを「満たせるもの」=「意味あるもの」と見出し、「自己像」と必然的な関係を意味付ける観念なのです。
これは同時に、「意味あるもの」と「意味なきもの」を規定します。
これがあらゆる基準・評価の初源なのです。

これらの思想様式が人間化の初源であるが故に、その事の客観化は得にくく対象化し難いのです。
それらは強固に、思考や制度の前提となってしまっています。
また、欠如を満たそうとする情念は、より「もっと」を産み、「もっと」が持つベクトルは、<至高であろう>とする願望を生みます。
それは、個の規定と同時に宗教・国家等の原型を生み出しているのです。

別の面から考えて見ましょう。
私達は、言語のもっている仕組みや効果が「思考の前提」であることに無自覚です。
言葉を変えると、<私>は、日頃自由に思考しているものと感じていますが、それは「既に語られ、語られつつある世界の内側」にいるにすぎないのです。
同様に、「私」という「主体」もまたこの「尺度を暗黙の前提にして測り、評価し共約している」世界内の必要要素でしかありません。
つまり、「私」=「主体」がいてその対象としての世界があるのではなく、「共約の世界」の為に自己同一な「私」が必要なのです。

では、どうしたら「私」の外に行くことが可能なのでしょうか。
バタイユは「消尽」「濫費」「非知」を提出します。
「意味あること」を生む思考の外へ、世界の外部へ、決して完了し至ることなき道を「反復」せよ!と言っているのです。

「私」の規定・思考様式・認識方法を止むことなく変え続け、常に自らに異議を提出し、無限に終わることなく自らを消しては書き、書いては消す運動に自らを投入するしか無いのです。