(97年7月感想文)
面白い特集を組んでくれるので、時々購入する雑誌ですが、一般書店にはなかなか置いておらず、長崎大学まで買いに行かなくてはならないのが少々難ではあります。
今回は「複雑系」に焦点を当てて、13の小論と1つの対談を載せていました。
分野も総論、経済、生物学、数学、物理学、社会学他多岐に渡っていて、まさに複雑系そのものという感じです。
では、なぜ今「複雑系」なのでしょうか。
今、ということで言えば、近代科学の方法論に対する批判と、コンピューターの発達による情報処理の高速・多量化の結果が、その理論の実証性を高めているのだと思います。
今までも人類は、社会や科学が「複雑」であると気付いていなかったわけではありません。
むしろ直感として気付いていたのです。
「ある複雑な事象」があって、それを理解しようと思ったときに、このままでは捉えきれないことがあります。
そこで取りあえず、考えられる限りバラバラに分解してみて、その1つ1つを詳しく調べてみた上で、それらを元通りに組み立てたら、元の「ある複雑な事象」になる「はず」だと考えたのです。
この考えでうまくいく領域もあって、ヨッシャヨッシャと「科学」は進歩しました。
しかし、全てがこれで理解出来たわけではありません。
科学的思考が唯一真理探求の方法だと考え始めた時に、人類は「近代」を迎え、これらに当てはまらない事象は摩訶不思議な「野性の思考」となったのです。
今ようやくその「近代王国」の時代は終わりを告げ、哲学からの近代思想批判と、コンピューターの演算能力の向上が、僕らの生きている世界が生物的にも様々なデーター的にも、偶然に近い一瞬の揺らめきの1点でしかないことを明らかにしてしました。
「複雑系」は、新しい理論ではありません。
言ってみれば、そろそろ近代科学思考だけではなく、他の方法でもう一度「ある複雑な事象」を考え直してみようよと、ということだと思います。
だから、量としての「複雑系」は流行とともに消えて行くでしょうが、質としての「複雑系」は残るだろうな、と勝手に考えています。
だって人間は、「ある複雑な事象」である世界を把握したいという、根本的欲求を持っているのですから。
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