聖の青春/大崎善生 講談社

東の羽生、西の村山と恐れられた天才的棋士の壮絶な一生の記録です。

幼少のころに難病のネフローゼを患った村山聖(さとし)は、入院時に偶然将棋と出会いました。
普通の子どものように遊ぶことも禁止され、不安と苛立ちの中でもがき苦しんでいた聖は、盤上の上では何の制約も受けずに空を飛び、疾走することが出来る世界に一気にのめり込んで行きます。

一人まっ白なシーツの上で、身じろぎもせず将棋盤を覗き込む聖。
昨日までは隣のベットで寝ていた子どもが、今朝には冷たくなって大人の悲しむ泪で包まれています。
一緒にご飯を食べた子が、一人また一人と・・・・・
生よりも死の方が力を持っているそんな現実の中で、彼は自分の命を守るかのように駒を握り続けていたのです。

真剣とか、必死とかの言葉が死語となり、かっこ悪い代名詞になってしまっている今日この頃、命の滴を引き換えにしか毎日を送れなかった彼の軌跡は、私たちに重い問いを投げかけてきます。
あなた達の生き方は、命の風に耳を澄ませているのかと・・・・

ここ数日子どもと将棋盤を挟み、将棋の海に漕ぎ出しています。
聖が短い青春を過ごしたその海は、秋の光を反射して優しく煌いていました。

性の倫理学/伏見憲明 朝日新聞社

この頃の「性」や僕らを取り巻く「性の文化」は、本当にどうなっているのでしょう。
何がなんだか分からないし、はっきり言って「何でもあり」の状況になってきているようです。
もう愛がないセックスだとか同性愛がどうだとか、援助交際はいけないとか言う話題すら、聞かれなくなってきた気がします。

「それぞれが自分に合った形の性を探して、自己決定していく。それでいいんじゃな〜い。」
「そうやな〜。それでいいような気がするけど、何かちょっと・・・・・」

本書は、著者と12人の様々な分野の人たちとの対談集です。
話題の中では、話者同士の痛烈な批判があったり、実証していることが全く正反対だったりしていて、まさに「性」が置かれている混沌性がよく表れています。
どの対話も皆ラフな雰囲気で交わされていて分かりやすいし、著者が様々な角度から重ねて質問を投げ掛けてくれるので、心底の納得に大変助かります。

性の商品化、セクシュアリティ、性経験の若年化、カミングアウト、日本人の性愛、性別保留制度、無出産社会、家父長制と性産業、法律婚、障害者の性、セックスワーカー、エイズ、性転換、性倫理・・・・

こりゃあ、簡単に語られるはずもないよね。
でも簡単ではないからこそ、他者のことを想像できる言葉や理解を模索しなくてはいけない気がします。
だって自分の「性」は、とりもなおさず他者と無関係ではないのですから。

子どもを愛せない親からの手紙/CreatMedia編メディアワークス
日本一醜い親への手紙/CreatMedia編メディアワークス
続編・もう家には帰らない;さようなら日本一醜い親への手紙/CreatMedia編メディアワークス

児童虐待のニュースが毎日新聞やTVで報道されています。
私たちは、「またか。まったくひどい親がいるもんだ。」と断罪した後は、慣れ飽きた情報のごみ箱に放り込み、ぱたりと蓋を閉じて終わりです。

子どもをどうしても愛せない親、イライラとして子どもにあたってしまう親、そして親から虐待を受けた子ども、親を憎みそのことで悩む子ども、そしてそんな人が身近にいるのに汲み取ることもしない私たち。

手紙の全文が公開され、毎日多数の書き込みがあるといいます。
こちらからどうぞ

雑誌「大航海」・・・(複雑系)批判的入門/新書館

(97年7月感想文)

面白い特集を組んでくれるので、時々購入する雑誌ですが、一般書店にはなかなか置いておらず、長崎大学まで買いに行かなくてはならないのが少々難ではあります。
今回は「複雑系」に焦点を当てて、13の小論と1つの対談を載せていました。
分野も総論、経済、生物学、数学、物理学、社会学他多岐に渡っていて、まさに複雑系そのものという感じです。

では、なぜ今「複雑系」なのでしょうか。

今、ということで言えば、近代科学の方法論に対する批判と、コンピューターの発達による情報処理の高速・多量化の結果が、その理論の実証性を高めているのだと思います。
今までも人類は、社会や科学が「複雑」であると気付いていなかったわけではありません。
むしろ直感として気付いていたのです。

「ある複雑な事象」があって、それを理解しようと思ったときに、このままでは捉えきれないことがあります。
そこで取りあえず、考えられる限りバラバラに分解してみて、その1つ1つを詳しく調べてみた上で、それらを元通りに組み立てたら、元の「ある複雑な事象」になる「はず」だと考えたのです。
この考えでうまくいく領域もあって、ヨッシャヨッシャと「科学」は進歩しました。

しかし、全てがこれで理解出来たわけではありません。
科学的思考が唯一真理探求の方法だと考え始めた時に、人類は「近代」を迎え、これらに当てはまらない事象は摩訶不思議な「野性の思考」となったのです。

今ようやくその「近代王国」の時代は終わりを告げ、哲学からの近代思想批判と、コンピューターの演算能力の向上が、僕らの生きている世界が生物的にも様々なデーター的にも、偶然に近い一瞬の揺らめきの1点でしかないことを明らかにしてしました。

「複雑系」は、新しい理論ではありません。
言ってみれば、そろそろ近代科学思考だけではなく、他の方法でもう一度「ある複雑な事象」を考え直してみようよと、ということだと思います。
だから、量としての「複雑系」は流行とともに消えて行くでしょうが、質としての「複雑系」は残るだろうな、と勝手に考えています。

だって人間は、「ある複雑な事象」である世界を把握したいという、根本的欲求を持っているのですから。