(97年7月感想文)
私は時々無性に現代思想家や哲学者の本を読みたくなって、岩波文庫や世界の名著などを手に取り眉間に皺寄せ始める時があります。
しかし十中八九、その難解が故に途中で断念してしまうのです。
だから、理解しているかと問われたならばきっぱり「否!」と答えるしかありません。
何の為に・・・・こんなことを・・・・しかし知りたい・・・・でも難しい・・・分からない・・・・でも気になる・・・・
まあ、懲りない癖の様なものです。
この現代思想の冒険者たちは、そんな風に脈絡も無く行きあたりばったりに読んでいた私にとって、選択の重荷を預けた良き先導シリーズです。
特に「バシュラール」の様に、1冊も読んだことがなかったような人物との出会いは、気乗りしない見合いで思わぬ美人と引き合わされ、日頃信じてもいない運命論を心の中で呟いてみたりするのに似ています。
「この人だよ!!」
代表作の一つである『水と夢』で彼は、「詩」ことにその言葉のもつ想像力(イメージ)に注目しています。
想像力には「形式的想像力」と「物理的想像力」があり、形式的想像力は、絵画的かつ言葉の動的なイメージで、後者は言葉の表すものの根源に関わり、ものの重心と底にあるものとします。
多くの詩的イメージが失敗するのは、前者の形式的な戯れで終わってしまっているからで、言葉のもつ物質性に根付けばそのイメージは、心理に持続的に働き続けるのだと言います。
そして彼は、火・水・空気・土の四元素の詩的世界を解明し始めるのです。
人は任意の環境内で、任意の想像をするわけではありません。
イメージには、ある種必然的な固有の物質的要素が負荷されているのです。
イメージが世界の重心となった現在、彼の想像力論は再考されるべきだと思います。
加えて彼は、デカルトの「単純本性の分離」という方法論的仮定を執拗に批判します。
「単純本性の分離」とは、近代科学の基本理念であり、事象は単純化できる個別な要素で成り立っているという考えです。
バシュラールは、単純性は理論として構築するために必要とされる単純性であって、存在はあくまでも近似的で尚且連繋する関係存在であり、単体で存在したり分離されるものではないと主張します。
又「認識論的障害」という大変興味あるキーワードで誤謬と無知の違いを浮き立たせてもいます。
これがまた面白いのです。
無知と誤謬は、<まだ存在しない問題><もはや存在しない問題>と区別して認識し、誤謬は、かつて1度は“問い”として成立させられ、それらの解答が提出されたことによって、再度の“問い”としては存在しないものとするのです。
しかも、それは正解を見えにくくさせるものとして存在する。というのも・・・・
他にも、“科学的思考の心理学”“コギタームズ”など、ホッホー、フムフムものが盛り沢山。
このジイさん、只者じゃないな、と深く頷いてしまいました。
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