コンセント/田口ランディ 幻冬舎

この感想文を書き始めて、5年を越えたことに気が付いたのはついこの間でした。
なんともまあ。気ままにとはいえ、よくそんなに書き継いだものだと、正直驚きました。
私のことを知っている人なら、もっと驚いたことでしょう。
学生時代から、突然思いついては華々しく話を打ち上げて、ようやく軌道に乗り始めると自分で勝手に総括して、後はよろしくと次の興味を捜し求めるというのが、私の風評でした。
一ヶ所に長く居ることも出来ずに、大学時代の引越し回数も2桁を数えていましたし、もちろんフラフラ、ぶらぶらは私の専売特許でもありました。
そんな私がこんな面倒なことを5年も続けられるなんて、自分でも思っていませんでした。

多分それが可能となったのは、あくまでも無理をせず(基本的に、無理は嫌いなんです。)より自由に書くことを心がけたからなのでしょう。(今後も続くかどうか保証の限りではありませんが・・・・)
そんな中で、自分に都合のいい原則をいくつか決めてもいました。
一つは「その時(!)の思った限定文である。」
それこそ他者にとっては無責任極まりない原則ですが、私にとってはお気楽で、感情的になっていようが、手を抜こうが、もともと下手だろうが、どこかで書き終わった後の俺には関係ねえやとケツを捲くって開き直れたということがあったように思います。

2つ目は、「面白くなかった部分はちゃんと書こう。」
もちろん本当に紹介する気になれなかった本は、感想文なんかに書かずに胸のうちに不満たらたらをきちんと溜め込んでいますが、感想文に書いても大概はその本にどこかちょっとな〜と思う箇所はあります。
それは私にとって、良かったことより重要なことだと思っているので、それはできるだけ書いてみようということがあります。

3つ目になると、こんな風に不特定多数の読者に向けて言葉を投げているのですから、「精一杯背伸びしてカッコウをつけよう!」
少しでも私のポイントアップの手段に繋げようと言うことですね。
もちろん不味い文章で、ポイントが下がることもあるのですが、それは自分に都合が悪いので考えないようにしています。

その他にも色々あるのですが、ほとんどが自己弁護と虫のいい思い込みの数々です。
そんな勝手な掟の一つに「連月して同じ作者の本は紹介しない。」というのがありました。
ただでも偏った読書傾向があるので、気を抜くと同じ作者や同じジャンルばっかりになってしまいそうなのでそれを戒めたものです。

しかし、ついに5年目にして、初めてその禁を犯してみようと思います。

本書は、紹介が前後してしまいますが今月の「コンセント」が処女小説で、昨年の12月に紹介した「アンテナ」が第2作目でした。
少なくとも芥川賞や直木賞、はたまた各種新人賞で新しい文学を作り出している(つもりになっている)日本文学の中枢では生み出し得ない作品です。
しかもそれを支持してこの世に送り出したのは、何の権威もなく自己の不安や快感に正直であろうと幻想を抱いているネット読者からだったのです。
そのことが何を意味しているかは、たぶんこれら言葉の集積物が将来どのような形で残っていくのかが実証してゆくはずです。

しかし彼女の他の作品「ミッド・ナイト・コール」PHP出版や、エッセイは残念ながら今一歩だと思います。
それが何故なのか考えてみたところ、一つ思いつくことがありました。
本書及び「アンテナ」は、彼女の口を借りて語った死者たちの言葉なのです。
田口ランディという優れた巫女が、葉脈浮き出る言の葉に変えて伝えてきたことは・・・・

ネット上に渦巻く怨念や情念は、浮遊することでは飽き足らず、今大地に降臨し始めました。
そしてそれら言霊はあなたの肉体を支配し、視線のその奥のそのまた奥でくくっと笑い始めています。

依存症/信田さよ子 文春新書
夢見る人びと自立と依存の精神病理 /三浦弘史 民衆社

20世紀は、「無意識」の世紀でした。

「無意識」が希代の演出家フロイトよって、幕裏の乱雑な装置の影から表舞台に引っ張り出されたのは、丁度100年ほど前です。
元々狂言回しが大好きな「無意識」は、様々な仮面と衣装を身にまとい多数の役名を使い分けながら、一気にスターダムにのし上がってゆきました。
ある時は経済を支配し、ある時は人の心を操り、またある時は歴史のギアチェンジも画策しました。
それはかつての大スター「神」をも恐れぬ勢いだったのです。

しかし、次から次にと繰り出されてくる変幻自在な彼の存在に一喜一憂し、そのスリリングな物語に万雷の拍手を送っていた観客達は、気が付くともはや「無意識」が登場してこない物語なんて、ちっとも面白くなくなっていました。
いや、むしろ不安さえおぼえていたのです。

いったんその存在に光をあててしまった後は、残念ながら後戻りできません。
いまさら慌てふためき後ろを振り返っても、あらゆるものに「無意識」の刻印は押されてしまっているのです。
もはや我々はこの刻印を抱いて、生きてゆくしかありません。

「依存」という言葉は、まさにそんな現在を象徴する言葉であると思います。

「依存」による弊害は、「依存者自身」というよりも近親の人間や関係に派生します。
つまりあなたの依存は、あなた自身では問題と感じないのです。
風邪や病気はその本人の病と認識されますが、「依存」はその依存者を取り巻くその関係に弊害が生まれて始めて「病」になります。
しかも厄介なことに、「依存」なき生はありません。
誰しも「依存性」から免れることは出来ないのです。

あなたは何に依存していますか?
パートナーですか?今でないあなたですか?仕事?セックス?子ども?親?趣味?それとも・・・・

気持ちイイでしょう?