(97年7月感想文)
名前は聞いたことはありましたが、どんなことを述べているのか全く知りませんでした。
今回本書を読んで、興味ある主旨と疑問を少し。
人間が生きているとはどういうことか?
この西洋哲学の伝統的な問いに対して彼は、師ハイデガーが掘り進めた「解釈学」を一歩進めて、人間は生きている限りいつも「理解する」のだと提出します。
常に自己理解や世界理解を行っており、そうしている存在が人間だと。
では「理解する」とはどいうことなのでしょうか?
「〜を理解する」「〜考える」というように理解するには、その対象が必要です。
しかもその対象が「対象」となる為には、すでに対象の把握(理解の先行構造)が必要であり、これをガダマーの「先入見」と言います。
私達の「理解」とはこの先入見を足場にし、そこから出発しなければなりません。
そしてこの先入見は、どうしても時代という歴史性を限界として持っているのです。
言葉を変えれば、私達はこの時代という歴史的存在なのです。
そんな私達が未来に向かうためには、現在に繋がっている過去の理解が必要となります。
そして過去の地平と現在の地平との相互交渉が「地平の融合」を生み、新たな自己理解が形成されてゆくのです。
この「融合」は決して完了されることはなく、たえず歴史的状況によって変化し続けているのです。
彼はこれらの基本理解から、「テクスト解釈」「世界経験の言語性」等現代的な「理性」の復権を目指して果敢に歩み進めて行きます。
私見で言えば彼の存在理解の基本は、ハイデガーの現存在の運動を、歴史的地平を用いて敷行したように思え、しかもその認識様式は、あくまでもヘーゲルの弁証法に依拠しているにすぎないように思います。
ハイデガーやヘーゲルの再評価とは違う方法継承は、残念ながらそれらの構図を維持している思考の疑問提出には無力だと思うのです。
しかしそれにもまして、彼の姿勢はこの閉塞した思想状況には、他に代えられないほどの勇気を与えてくれます。
ガダマーは現代思想が批判する「真理」思想の欠点をあえて掴み直し、思考する絶望から何とか再生することを試みているのです。
それは「表現」に失敗し続ける現代思想を尻目に、無限の「地平の融合」が、生きている「表現」であることに胸を張り歩み続けるかのように。
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