「数多ある民族の中で、何故ユダヤ人だけが執拗に2000年以上もの間迫害や阻害を受けなければならなかったのか?」
もちろんイエスを巡る話もあるでしょうし、ユダヤ教のもつ選民思想や世界中に散らばって各国経済界に与える大きな影響力に対する妬み等もあったかもしれません。
しかし、それだけで深層意識に潜む蔑視やナチスによるホロコーストの成立がありえたとはどうしても思えなかったのです。
豚肉を食べないユダヤ教徒とイスラム教徒、それに対して豚肉を食べ3世紀のアンチィオキア公会議では食べることを奨励する宣言まで出したキリスト教。
この違いは、食物に対する選別の差ではなく、そこには文化を超えた複雑で深い関係があったのです。
豚という動物を通した、近親宗教の憎悪の物語が表れてきます。
旧約聖書の中で語られている豚の不浄性は、単純な見た目や偶然性ではなくて、豚と人間との身体組織の類似性(皮膚や臓器形状のことですが、私も子指の大怪我の時に、豚の皮膚を張った経験があります)などから、カニバリズムや共食いイメージの禁忌でもあったのです。
そんな豚に対する回避と蔑視の中、ユダヤ人が母子と豚を籠に隠してイエスにあてさせようとした時、それを知っていたイエスが人間(ユダヤ人)と豚それぞれを入れ替えてしまった説話(子どもを豚と取り替えたとかのバリエーションもあります。)などによって、キリスト教側からはユダヤ人と豚とを相関させる強化がなされてゆきました。
キリスト教(徒)はユダヤ教から派生したが故に、キリスト教としてのアイデンティティーが必要で、差異化としての豚を食することを主張しながら、ユダヤ人と豚との同化を推し進め、「神を殺した民」を象徴的処刑に模した「聖体拝領」という精神的「生贄」儀式を有するに至るのです。
勿論それらの反ユダヤ主義的想像世界の背景には、「動物界のユダヤ人」的イメージを負わされた豚のもつ「家畜ー屠殺ー血と肉」や赤い色などのメタファー、嚢虫症とハンセン病との関係や去勢師などを使いどんどん文節再構成されていったのです。
その仮説の実証を、膨大な資料に基づき緻密に積み上げてゆきながら日常生活の中からの例証も豊富で、先の聖体拝領のパンや儀式の名称でユダヤ人にまつわる数の多さと、ユダを首吊りにした聖金曜日が今現在も行われている写真や資料、ハムやソーセージにされた豚が謝肉祭の間と復活祭の日曜日に食されることなど、かなり心に届くものがあります。
著者のクロディーヌは、レヴィ=ストロース人類学の系譜に属し、国立科学研究所研究部長、トゥルーズ社会科学高等研究院などの要職についている注目の研究者で、流布されているユダヤ人書物とは明らかに違ったスタンスを持っていると思います。
ただ、キリスト教が定着するまでの間には、土着の宗教や社会構造、民族紛争等の影響が複雑に絡み合っているだろうし、典型的な儀式一つとっても、単一な理念によって成り立ってはいないであろうことも想像できます。
それにしても、日本が表層的なキリスト教文化圏の中にあることが、痛切に理解出来た衝撃の書物でした。
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