(97年6月感想文)
本屋の業として、話題の本は一応その時に目を通すのですが、それにしてもこの本の反響はすごいですね。
映画の効果もあって、今だに売れ続けています。
正直に言います。1ページ目を読んだ時点で止めようと思いました。稚拙な文章。下手な性描写。創造力の無さ、薄っぺらな状況設定に人物描写・・・
だが、全く何の理由もなく数十万冊も売れるとは思えません。
じゃあなぜ今その作品が売れるんだと考えてみると、別の局面が現れてきます。
新聞の連載だったこと。
セックスが前面に出ていること。
レディースコミックや週刊誌などで、女性が性描写を読む機会が増えていること。
ソフトSMというスタイルが市民権を得てきたこと。
渡辺淳一という作家のワンパターン文体が、単一が故に固定的読者層をもっていたこと。
彼の保守的な日本伝統文化に対する幻想が、読者の欠如感と憧憬を刺激したこと。
最終的に、女性が男性よりも精神的に優位に立つこと・・・
そしてこれらを通して、この本の最も現代的で優れていることは、「身体性への完全な帰依」だと思います。
このことが、現在の読者の無意識と相通じ、社会現象化していったのです。
本書で描かれているのは久木と凛子との「精神愛」なんかではありません。
「性の一致」ただそれだけです。
最後に交わす2人の会話は、「生きていて良かった。」「ありがとう。」でしたが、これは、“あなた”という総体ではなく、“あなたの肉体”への別れと感謝の言葉なのです。
読者は精神愛なんか信じちゃいません。それで死なれちゃ嘘っぱちだと思うだけです。
しかし、二人の性が数万人いや数十万分の1での一致であるなら。
そんなに気持ちがいいのなら。
その為(!)に死ねるなら、そこにはリアルがあるかも知れないと我々の無意識層が呼応しているのです。
「私」を確認しにくい現在、「感じる」この体験だけは「私」だけのものです。
もう人は、道徳や人倫の為に死ねないのです。
道徳は、性設定としての燃える道具でしかありません。
不倫が2人にとって燃える要素なら、夫婦関係を解消した後にそれぞれが再婚して、不倫として会おう。
それぐらい性は自由になってきています。
男たちが古いレイプ神話にしがみついている間に、女性達の豊かな創造力は、ずいぶんと先に行ってしまったのかもしれません。
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