人間にとって、「病」とはなんなのか?
社会にとって、「病」はいかなる意味をもっているのか?
この頃急に、新聞やTVでハンセン病について報道される機会が増えました。
紙面や論評を読んでいると、長年の苦労が少しずつ報われて、いまようやく彼ら彼女らも解放の道を進めてゆけそうです。
よかったです。
(でも・・・・)
そんなに酷いことされていたのか!知らなかった!
昔は差別に対する視点を持たなかったから、信じられない時代が長かったんだろうね。
僕らはきっと彼ら彼女らと会っても、受け入れていけると思うよ。
今まで会ったこと無かったんだけど、きっと会っても何とかうまくやってゆけると思うよ。
会ったこと無かったから・・・・
(でも、本当にそうだろうか・・・)
日本史のなかにおけるハンセン病患者の記述は、「日本書紀」の中で早くも表れていました。
世界史を見ても、新約聖書(旧約にも似たような表記がありますが、考古学的・疫学的研究によって、その当時レプラ桿を病原体とした感染症は存在していなかったのです。)に書かれていることはよく知られていることです。
しかしよく見てみるとその病に対する疎外世界は、古代の差別観がそのまま現代に繋がっているわけでもなく、また現代の差別観が古代と同じ差別観でもなかったのです。
このことは頭では分かっているつもりでしたが、どうもとんでもなく大きな落とし穴になっていたようです。
古代から近世にかけて彼らは、業病(天刑病)であったり血病(家系病)と言われたりする中で、さまざまな疎外と偏見にさらされてきました。
しかし近代における伝染説による完全隔離は、単なる政策や無知・偏見だけではなく社会理念の問題であるようにも思うのです。
ある問題に対するベクトルが、単一的な対応しか持たないとき、それは個々で生きる個人を無視し、社会の多様性の中で生きることを否定します。
完全隔離政策が国家の主導で行われる前、もちろん不条理な差別は行われてきました。
しかし、それでも地域や宗教や個人の多様な対応があって、そのなかで生きる選択肢もあったのです。
例えばどこで倒れようともかまわない「寺往来」というのがあったり、遍路や湯治・放浪に彼らが赴き、その中で治療に努力する地方医者との交流や、家族のために働いていた癩者や、彼らの社会的身分保障、宗教からの救済もあったのです。
そんな彼らを経済活動や救済のなかでとらえて、共に存在していた「社会」が確かにあったのです。
個人が生きるということは、「多様な生」を生きるということです。
社会にその多様性を認める余地が無いとき、それは「個人」として生きてゆけないということと同義なのです。
もちろん私は単純に、現代よりも過去のほうが良かったと言うつもりはありません。
針山の地獄が、業火の地獄に変わったとしても地獄であることに変わりはないのですから。
誤解を恐れずに言うと、差別や偏見は、人間の基本的な認識が差異認識から派生することを考えると、なくならないと思います。
しかし、ただ・・・・と考えてゆくことは可能だと考えているのです。
1964年5月16日付けの朝日新聞「天声人語」で「シュバイツァー博士は日本にもいた!」という題名で絶賛されたのは、14日に亡くなった「光田健輔」氏のことでした。
この人こそ、日本の強制隔離政策(光田イズム)を提唱・推進したその人です。
これが朝日新聞だけではなく、毎日新聞をはじめその他日本のマスコミの「良識」のスタンスでした。
しかし、その頃には医学常識としての伝染力の弱さ、特効薬プロミン(1943年)の治療法の確立、国際医療からの日本のハンセン病政策への批判(1956年)などで、強制隔離政策の非は明らかだったし、患者からの多くの声も出ていました。
それらの状況下における、マスコミの賛美記事だったのです。
あれから三十数年後の今、現在の「良心」報道合戦です。
日本の朝鮮統治時代には、朝鮮総督府によって数ヶ所ハンセン病療養所が作られました。
この地でも日本は、強制隔離と収容を行い、当然ながら数千人以上の断種手術も施していたのです。
その上あろうことか、かの患者たちに破傷菌を注射する人体実験も行っていたのです。
ハンセン病をめぐる昨今の報道にはなんとなく底の浅さを感じて、胡散臭さと疑念が生じてしまうのです。
しかしどうもことは、マスコミや政府だけでは無いように思います。
弱い声であっても確実に彼らの声は発せられてもいたし、問題性は指摘されていたのにもかかわらず、何十年も耳をふさぎ目を閉じて口の端にあげることを否定していた「私」が、次々と画面に流れ出る不幸な人々に自己を問うこともせず頷首していないでしょうか?
その単純性は、多様な古代・近世の差別と共生から、単一な隔離へと繋がった近代の差別観から一歩も前に進んでいないような気がしてなりません。
(2001年11月)
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