放送禁止歌/森達也著デーブ・スペクター監修 解放出版社

「竹田の子守唄」(赤い鳥)「五木の子守唄」「かごめかごめ」「通りゃんせ」
「ほたる」「ほととぎす」「東京流れもの」「錨をあげて」
「トラン・ブーラン」(東京少年合唱団)
「S、O、S」(ピンク・レディ)
「セーラー服を脱がさないで」(おニャン子クラブ)
「蘇州夜曲」「支那の夜」(渡辺はま子)
「ILOVEYOUはひとりごと」(原由子)
「朝刊」「聖野菜祭り(セントベジタブルディ)」(さだまさし)
「YELLOW・CAB」(山下達郎)
「波止場だよお父っあん」「びっこの七面鳥」(美空ひばり)
「水づくし」「月の光(トラン・ブーラン)」(雪村いづみ)
「時には娼婦のように」(黒沢年男)(なかにし礼)
「まっくろけ節」(越路吹雪)
「網走番外地」(高倉健)
「人間バンザイ」(西村晃)
「手紙」「チューリップのアップリケ」「友よ」「山谷ブルース」「私たちの望むものは」(岡林信康)
「イムジン河」(フォーク・クルセダーズ)
「生活の柄」「自衛隊に入ろう」(高田渡)
「おれは番長」「シンボル・ロック」「番長ブルース」(梅宮辰夫)
「夢は夜ひらく」(三上寛)
「後ろから前からどうぞ」(畑中葉子)
「からっぽの世界」(ジャックス)
「君が代」(忌野清志郎)
「金太の大冒険」「怪傑黒頭巾」「吉田松陰物語」(つぼイノリオ)
「おそうじオバチャン」(憂歌団)
「関西流れもの」(松方弘樹)
「世界革命戦争宣言」「赤軍兵士の歌」(頭脳警察)
「黒いカバン」「戦争小唄」「オー脳」(泉谷しげる)
「悲惨な戦い」(なぎら健壱)
「びっこの仔犬」(加山雄三)
「大島節」「放送禁止歌」「月経」(山平和彦)
「ヨイトマケの唄」(美輪明宏)
「愛の床屋」(唐十郎)
「ザ・サムライ」「つくばねの唄」(あのねのね)
「梵坊の子守唄」(野坂昭如)
「丸の内ストーリー」(畑中葉子ビートたけし)
「娘の便り」(高石ともや)
「つらい夜」(日吉ミミ)
「子供は眠る」(小室等)

その他多数・・・・

なぜ?放送禁止なのか?
なぜ?放送禁止ということに、私達は内心頷いてしまうのか?
なぜ?放送禁止と決定する組織も規則も存在しないのか?
なぜ?放送禁止の歌は、実は「放送しても構わない」のか?

なぜ?なぜ?なぜ?・・・・

蒼頡たちの宴 漢字の神話とユートピア/武田雅哉 ちくま学芸文庫
翔べ!大清帝国近代中国の幻想科学/武田雅哉 リブロポート
新千年図像晩会/武田雅哉 作品社
桃源郷の機械学/武田雅哉 作品社
清朝絵師呉友如の事件帖/武田雅哉 作品社
ピエル・ロティの館 エグゾティスムという病/岡谷公二 作品社
大江戸視覚革命 18世紀日本の西洋科学と民衆文化/タイモン・スクリーチ 作品社
江戸の身体を開く/タイモン・スクリーチ 作品社
中華中毒中国的空間の解剖学/村松伸 作品社
中国的大快楽主義/井波律子 作品社

良いとか悪いとかと言うわけじゃないんです。

現在の人々は、以前よりもはるかに優れた視覚メディアの読解力を身につけているし、感受性も豊かになっていると思います。
もちろん過去にも卓越した表現者もいたし、その表現を受け止める解読者もいたでしょう。
しかし、その絶対数やマス化して流すことが出来る技術や表現の多様性は比べようもなく現代の方が優れていると思います。

数年前に、文字メディアが主体の書籍よりも雑誌を中心とした視覚重視の書物の方が売上を上回り、全国の書店売上よりもコンビニでの書籍売上の方が多くなっているのです。
これは、決定的な構造のシフト変化をあらわしていると思います。

繰り返して言いますが、良いとか悪いとかの話ではありません。
今我々は、ネットやTVも含めて視覚からの情報を中心に、「ほの暗い生活の明り取り」としてすがっている事は事実なのです。
今後もしばらくはこの傾向で、情報の大量流出が続いてゆくことでしょう。

この「作品社」における、図像学というか絵解きからの社会を切り取る試みは、そういう意味で先見性をもっていると思います。
視覚(図像)の中に隠された意味を腑分けすることによって、その当時の人々の世界像と現代との相違を浮き彫りにし、それと同時に我々が迎えている視覚の大量消費の危険性と固定化に警笛を鳴らしているのです。

豊かな図像とは、大衆に向けた情報の中に製作者個人のアンチ大衆の視点が盛り込まれ、それを汲み取る大衆がそれを丸ごと揶揄し、自らの現地点を笑い飛ばす余裕があるものを言う気がします。

今最も懸念するのは、その余裕が両者から消えているのではないかと感じることです。

紹介した本はどれも、1項目立てて紹介しなくてはならないほど秀逸で尚且つ面白い本です。
これらの本で垣間見せてもらった世界は、おいおい紹介させてもらうという自己怠慢で一様に割愛させてもらいました。
どの本から入っても、どの時代から足を踏み入れても、驚異=メラヴィリアの悦楽園です。
異界・異郷の区別を生み出す近代知なんて、屁の役にも立ちません。

無限すら内包する円環(エン・サイクル)の大知識(パイディア)は、真の百科事典(エンサイクロペディア)なのです。
(2001年12月)