張形江戸をんなの性/田中優子 河出書房新社

当たり前のことのようですが、張形は「をんな」のものだったのです。

しかし10数年前は、「オトコ」のものだったように思います。

今、現代の「をんな」達は、もう一度張形をわが手に取り戻したようです。

「これは好奇の書物ではありません。
略奪された歴史書です。」

そんな「おのこ」の認識を、書中の彼女達があざけり笑う声が聞こえてきます。

バタードウーマン虐待される妻たち/レノア・E・ウォーカー著、斎藤学監訳、穂積由利子訳 金剛出版

いわゆるDV(ドメスティック・ヴァイオレンス)の先駆的研究書です。

ここ数年、DVや児童虐待などについて、自分なりに多書に手を広げ、考えようとしてきました。
しかしどれも、掻処に手が届きそうでいて、なかなかその核心に届いた気ができませんでした。

多分この問題が、実相的な急務と、人の心の問題と、他人同士が一緒に生きてゆくという形態に関わっているからだと思います。

これら三つの問題は、それぞれが複雑に絡み合っていると同時に、それぞれの次元できちんと考え尽くさないと見えてこない領域を抱えているのです。
安易にどこかの視点でこの世界を語ってしまうと、残りの問題性について全くの手落ちになってしまい、ねじれたり逆転した形で繋がっているそれぞれの位相が、単純な倫理の問題に収斂してしまう危険性があるのです。

本書は、アメリカでもようやく注目され始めた1979年に書かれたもので、筆者自身がはじめに述べているように、命の危険性にさらされている現実の彼女らを救出することと、そのための具体的手法に主眼が置かれています。
がしかし、今読んでもDVをめぐる基本的な問題提出は保留も含めて多角的に提出されていて、DVの概念が市民権を得始めた現在、本書に戻って一つ一つの問題点を再検討してゆく必要を強く感じます。

親子であっても、突き詰めると他者同士です。
ましてや配偶者や交際相手ならなおさら、他者同士が寄り添う根本的な摩擦が生じるのは畢竟なのです。
「人は一人では生きてゆけません。」などという道徳的な弁明で、納得するべきではありません。
人が人と向き合う時の発熱と、人が一人で居ることの必然の問題を、親子や家族であることも含めて切実に見つめるべきだと思います。

他者同士が一緒に生きてゆく困難さ、そして他者の世界のみならず、自分が「自分の世界」を想像し尚且つ尊重することの困難さは、個々の問題だけではない気がします。
違う家族が隣り合って生きること、違う民族がともに生活すること、違う宗教や文化や言語を持つ一人一人が「同時代に生きている」このことの「困難さ」に、虚飾の言葉でなく向き合わなくてはいけない気がします。

在日韓国人三世の胸のうち/李青若 草思社

(97年6月感想文)

この本を読んで、僕の中で在日問題の一領域がストンとケリがつきました。

私は以前から、「在日の人は」「障害者は」等でイメージされていたこと、また、イメージしてしまっていたことは、本当は違っているのではないか、現実には違う次元に移っているはずだと言ってきました。
そしてその裏付けが欲しくて、様々の本やデーターを読んでいました。
そんな中で出会ったのが、本書と以前紹介した『在日韓国人青年の生活と意識』です。

著者は「1人の人間が、在日と日本人との両方の立場を経験することは不可能だ。でも避けなければならないことは、理解しようとする姿勢を放棄したり、完全に理解できたと思い込むことだ。」と主張するとともに、漠然とした「在日」のイメージでひとくくりにされることに強い違和感を表明します。
そのことは同時に、「日本人」を単一のイメージで考えてはいない、彼女の「生活」を感じさせるのです。

色んな在日の人がいて、様々な日本人がいて、又民族とは関係ないところで障害者とくくられている人達がいます。
様々な「個人」がいるという前提から始めなければなりません。
多様な個人を内包している「日本人」とは何なのか。
多数の人間をくくっている「民族」「国家」とは何なのか。
ようやく「個」からスタートできる時代になったのかも知れません。
「個」の視点から覗き込んだ、新しい「在日の問題」「差別の問題」が立ち上っているのです。

本書についてもう1点。
著者は5才ほど年下で、私とさほど違った時代を生きたわけではないと思うのですが、その生活習慣は全く違っています。
一歩家に入ると、そこは完全に韓国・朝鮮文化が基本文化です。
私は今迄に、多くの日本名を使っていた在日の人々に出会っていたと思います。
でも一部の人を除いては、全くその異文化の生活習慣を感じませんでした。
私が鈍感だったのかもしれませんが、本人たちがそのことに気を使っていたのならちょっと考え込んでしまいます。
多数の人たちが、自らの文化アイデンティティを見つめながら「他文化社会」の中で生活しています。
その個別な文化差を認めず、どこか隠蔽することを強いてはいないだろうか?

色んな国の文化が生活のなかで垣間見えて、それを共有する社会がある。
それら多数の文化が影響し合い、変容する部分は変容し、固有化する部分は残る、そんな生々流転の文化は、夢なのでしょうか?
世界が多くの情報で、妙にナダラカになってきている気がします。
かと言って、多文化主義を標榜するにも考え込んでしまいます。

この「文化」って何なのか?そのことから考え始めなければならないのかもしれません。
(2002年1月)