(97年6月感想文)
この本を読んで、僕の中で在日問題の一領域がストンとケリがつきました。
私は以前から、「在日の人は」「障害者は」等でイメージされていたこと、また、イメージしてしまっていたことは、本当は違っているのではないか、現実には違う次元に移っているはずだと言ってきました。
そしてその裏付けが欲しくて、様々の本やデーターを読んでいました。
そんな中で出会ったのが、本書と以前紹介した『在日韓国人青年の生活と意識』です。
著者は「1人の人間が、在日と日本人との両方の立場を経験することは不可能だ。でも避けなければならないことは、理解しようとする姿勢を放棄したり、完全に理解できたと思い込むことだ。」と主張するとともに、漠然とした「在日」のイメージでひとくくりにされることに強い違和感を表明します。
そのことは同時に、「日本人」を単一のイメージで考えてはいない、彼女の「生活」を感じさせるのです。
色んな在日の人がいて、様々な日本人がいて、又民族とは関係ないところで障害者とくくられている人達がいます。
様々な「個人」がいるという前提から始めなければなりません。
多様な個人を内包している「日本人」とは何なのか。
多数の人間をくくっている「民族」「国家」とは何なのか。
ようやく「個」からスタートできる時代になったのかも知れません。
「個」の視点から覗き込んだ、新しい「在日の問題」「差別の問題」が立ち上っているのです。
本書についてもう1点。
著者は5才ほど年下で、私とさほど違った時代を生きたわけではないと思うのですが、その生活習慣は全く違っています。
一歩家に入ると、そこは完全に韓国・朝鮮文化が基本文化です。
私は今迄に、多くの日本名を使っていた在日の人々に出会っていたと思います。
でも一部の人を除いては、全くその異文化の生活習慣を感じませんでした。
私が鈍感だったのかもしれませんが、本人たちがそのことに気を使っていたのならちょっと考え込んでしまいます。
多数の人たちが、自らの文化アイデンティティを見つめながら「他文化社会」の中で生活しています。
その個別な文化差を認めず、どこか隠蔽することを強いてはいないだろうか?
色んな国の文化が生活のなかで垣間見えて、それを共有する社会がある。
それら多数の文化が影響し合い、変容する部分は変容し、固有化する部分は残る、そんな生々流転の文化は、夢なのでしょうか?
世界が多くの情報で、妙にナダラカになってきている気がします。
かと言って、多文化主義を標榜するにも考え込んでしまいます。
この「文化」って何なのか?そのことから考え始めなければならないのかもしれません。
(2002年1月)
|