アイヌときどき日本人/宇井眞紀子 社会評論社

アイヌの人々のことについて知ったのは、高校の頃でした。
その頃の私はそんなにも熱心な読書人でもなかったのですが、同級生の女の子から薦められた(なんであれ、女の子から紹介された本は、背伸びをしてでも必死に読もうとする純心?な時期です)アイヌの人々の本は、かなりショックを受けました。
図書館の先生に、アイヌ関連の本を尋ねたのが、初めての図書館利用だったと思います。
その後、在日朝鮮人とか被差別部落民だとか社会矛盾に敏感になってゆきますが、アイヌの人々の実態については、機会あるときに目を通すぐらいの不真面目な読者でした。

そんな私の勝手なイメージでは、彼らは「風の民」であり、言い換えるとそれは「耳の民」だと思っていました。
視覚に訴える文字に頼らず、何日にもわたる口誦による神話を持つ民は、音の響きとその音意の優しきイマジネーションに編み上げられた世界を持つ羨ましき民だったのです。
その幻想領域の重心は、聴覚重視の世界観故のものだと思っていたのです。

しかし彼らが持つ世界は、そんな視覚や聴覚や嗅覚とに分類してしか安心できない、卑小な自意識ではありませんでした。
この写真集を見ると、彼らが生きている、いや生きようとしている世界は、自然物が持っている存在そのものと、その抽象化した文様の一片として「生かされている」人間存在への感謝に根ざしているのです。
なんという世界でしょう。
なぜ成立できるのか?と疑問視してしまうほど、無私な「存在の民」だったのです。

それと同時に、そんな「存在の民」が現存しうる困難を、現実のアイヌの民はあえて背負おうと集い始めています。
今の時代に「存在の民」であろうとする不可能性を、「今、自分がここにいる」という確信を頼りに・・・・

和人である我々にも聴こえてくるはずです、彼らが奏でるムックリ(口琴)とトンコリ(弦楽器)の悲しくも、誇らしげな調べが・・・・

ワンダーゾーン/福本博文 文藝春秋

これでもかこれでもかと事件が起こるのに、これでもかこれでもかと人が群がり、これでもかこれでもかと金が動く。

自己啓発セミナー、退行催眠による前世療法、ネズミ講によるマルチ商法、宇宙意思との交信するチャネリング、カルト教団による洗脳道場、自己暗示や能力開発プログラム、霊媒師による詐欺集金、生命水や奇跡の物質への盲信、目には見えない波動や電子の力・・・・・

どうして?

これをアホだと言って切り捨てるのは簡単だし、俺には関係ないと「平穏な社会生活」を過ごすのも、もちろん構いません。
しかし、どうもこれらの基盤は「平穏な社会生活」から生まれ、ここに深く根ざしているようなんです。
イカガワシイこれらへの糾弾に頷く隣人が、あなたの家族や親族が、そして何よりもあなた自身が「平穏な社会生活」に対する「かすかな違和感」を抱え込んでいるのではないですか?
それでも常識や理性や合理的思考があるから、そんな馬鹿な集団には入らないと言うのでしょか?
そう?本当に?

著者は、単なる暴露本にしたり、断定的な解答を提出することによって、これらの問題を処理しようとはしていません。
かと言って、参加者への同情や共感で立場を安易な良心に置こうとはせず、ふらつきながらも「現実」に向き合おうとしています。
惜しむらくは、表紙絵とイラストが小田原ドラゴン氏によるものなのですが、いかにもギャグ系の茶化した感じの印象を与えてしまっていて、本文切り口の鮮やかさとの落差は大きく、読者を逃がしている気がします。


A「君は、朝起きるのも苦手で、何をするにもドジだし、そんなに美人じゃないけれど、そんな君を僕が守ってあげるよ。君のことを心から愛しているから。」

B「今のままの君が好きなんだ。君自身は気づいていないかもしれないけれど、あなたはあなたのままでいいのだよ。僕はちゃんと分かっているから。」

C「さあおいで、一緒に変わろうよ。本当のあなたに!信じたら必ず変われますよ。」

みんな同じ?
(2002年2月)