ギルマンの本は、この感想文を書き始めてから、すでに3冊目となりました。
ギルマンの思想に傾倒しているわけでありませんが、その鮮やかな手法とテーマに強く心引かれるものがあるのです。
1960年代後半の「構造主義」は、人間の思考の根本を直視すると同時に、疑問視するという思想運動でした。
歴史とは何か?
本当に歴史は、連綿と過去から未来へと繋がっているものなのか?
続いているとすれば何が続いているのか?
又、その様な一本の大いなる歴史を考える「人の思考形式」とは何なのか?
同様に、人間とは?文化とは?言語とは?科学とは?精神とは何なのか?
それぞれは、信じている様に前提として「ある」のだろうか?
そして彼らは、これらの問いに答える為、1つのキーワードとして“言語”を考え、それを武器に歩みを進めたのです。
世界とは、「言語化可能なものの総体」を言います。
もちろん実在は物質的な基盤をもってはいますが、同時に非物質的なイメージから逃れられません。
なぜならそれは、言語化という宿命を持つ世界内にあるからです。
故に「世界」は不定型なイメージによって「変形」されるのです。
この変形の変移の様を、ギルマンは膨大な資料(瞬間の歴史)を用いて腑分けしてゆきます。
これは私自身の中で、ドッカと居座る前提を座布団ごとひっくり返される衝撃と、心地よさ与えてくれました。
確かにモノは、言語化されて初めて「世界」になります。
この言語化されるというのがミソなのですが、これは初めから変遷を運命付けられているようなものです。
しかしこの考え方で見てみると、自分の中で当然の不変と思われていたものが、実はこれも可変な一つなんだと知らされる大きなショックと納得を与えられますが、そうか、変わってしまうのかと知った後は「それで?」としか出て来ないのです。
もちろんギルマンはこの先を目指して、「それを生む」人間の思考形態を探るのですが、そこまでくると「それも明日には変ってしまうんじゃない?」と凡夫はどうしても思ってしまうのです。
「答えを生まない宿命の不定形の問い」は、実存の雨をしのげません。
しかしそれでも人間は、雨に打たれながら「あうぁ!」と不定形の問いを発する宿命にあるのも確かです。
要は、座布団は剥いじゃだめなんだと思います。
しかし残念ながら我々は、何が座布団なのか知らないのです。
それを知る試みの一つとして、一度座布団ごとひっくり返されるのも良いかもしれません。
どうですか?あなたも一緒に、宙を回ってみませんか?
(2002年3月)
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