晴子情歌上下/高村薫 新潮社

ここ数年の人間や社会のやせ細りに対する、作家からの根源的提言です。
なぜこんな風になってしまったのか?
いつから日本は、舵を切ってしまったのか?

そして我々はどこに行こうとしているのか?

彼女は、今流通している言葉ではもはや何も語れず、何も表現出来ないと体感しているのです。
この反応は、作家として妥当であるし、そのような試みをする作家が余りにも少ないのが、日本文学の空虚化を決定づけているようにも思います。

言葉が小さくなっています。
言葉の輪郭が明瞭になってしまい、膨らむことも縮むこともかなわず、動くことも無くなりました。
そんな言葉は、人が生み、人が操っています。

言葉が変わり、人が変わる。
人が変わり、言葉が変わる。

この作品は多分第1部に位置するもので、この後引き続き書き継がれるでしょうが、この方法がうまく行っているか私には大いに疑問ではあります
しかし彼女の危惧と、この作品で問い掛けている逃れようもない深い「孤独」への直視は、未来の自己を描けない我々に一粒の麦となるかも知れません。

人は、「独り」なのです。

共感する言葉や、寂しさや喜びの言葉を表す前に、まず、この「独り」であることを自認しなければなりません。

周りに転がっているのは、他者と見つめ合ったり頬を寄せ合う話ばかりで、個性があることを推奨したり賛美する一方で、そのことをにこやかに共有する事で他者と繋がろうとしています。
確かにこの命、他命無くして存在できないでしょうが、そのような関係性の中でしか生きてゆけない「この命」は、本質的に「単独」なんです。
近年我々は、「単独」であることを避けてきたような気がしてなりません。
文学も情報も、社会も「単独」者達(!)も・・・・

私は何者なのだ。

自己を探り、気持を表す言葉を探し、思いついては納得せず、また探し求めては逃す。
この飽くなき、不断であり、未決定な絶望的反復作業が少なくなっています。
ムカツクも超お気に入りも、大好きも、表出されるまでの時間が早すぎますよ。
しかも、「みんなで」頷きあって自足しています。

誤解を恐れずに言えば、私は精神的な引きこもりや、この重き肉体という塊を持て余しながら独りで過ごす「多くの時間」が必要だと考えています。
思春期は、本来的にこの多量な時間を必要としているのです。

この作品を読む間、必然的に「独り」を強いられました。
幾夜もかかってページを繰り、読んでも読んでも進まぬ言葉の海、隠微に隠微が絡みつく執拗さ、人物にわが身を重ねる事からの拒絶、全身をねっとりとした脂汗で包んで読んでいる身体の重みと、底無き暗闇の欲望に肌を泡立てています。
それにも増して、うめく様に地の底から競りあがってくるような不快。

忘れていた言葉が漏れ出ます。

「哀しい」

石のハート/レナード・ドレスタイン 新潮社

こんなにも不安で、しかも精緻で、悲しい小説があるなんて・・・・
ほほえましく、心がぎりぎり締め付けられて、情景が目に浮かぶ小説があるなんて・・・・
誕生があり、死があり、深い混乱の小説があるなんて・・・
恐ろしくて、健気な生長があり、絶望の小説があるなんて・・・・
現実の問題を突きつけられて、無知の危険が横たわり、後悔が渦巻く小説があるなんて・・・・
やるせなさがあって、期待があり、拒絶の小説があるなんて・・・

父がいて、母がいて、子供たちがいる小説です。

公僕/三島正 メディアファクトリー

不思議な人間達のグループだと、私が勝手に決め付けてしまっているのですが、公務員達の写真集です。
公務員の人たちの写真集。その企画だけでも、私なんか意識外からの声ように聞こえて、目からウロコなんですが、書名が『公僕』だなんて・・・
中身を開いてみるとさらに、驚愕のカットですよ。
究極のパロディかはたまた冗談の極みか、公務員制度もここまで懐が広くなったのかと、初めは感心半分笑い半分でページを進めていましたが・・・・とんでもありません!
そんな不埒な気持ちで観てしまって、心よりお詫び申し上げます。
三島さんの構図に真剣に取り組み、一人一人がレンズを見つめるまなざしは、間違いなく日本の枠組みを支えてきた人々だと、改めて気付かされました。
あんな真剣な目線は、多分私はもう2度と出来ないのではないだろうか。
本気でそう思ってしまいます。
公僕の人達って・・・・
(2002年6月)