1984年12月3日の真夜中、インドの古都であるボーパールで、世にも恐ろしい毒ガスが流出しました。
ガスは、イソシアン酸メチルという毒ガス中の毒ガスで、場所はアメリカ多国籍企業ユニオン・カーバイトの殺虫剤製造工場。
他所ではとても受け入れられない危険な原料と、驚異的な殺傷力を持つ殺虫剤を作るこの工場は、郊外にあるスラム街近辺にわざわざ建てられ、収益重視のため安全対策は手抜きをし、準備された事故とも思われます。
その惨劇は、証言者が「インドのヒロシマ」と呼ぶほどの地獄絵で、正確な死亡者の数は今現在もつかめておらず、死者1万6000人〜3万人、毒雲の影響を受けた人は50万人とも言われています。
しかしその中には、間接的な影響を受けた胎児とかは入っていません。(多分旅行者など一過的にそこにいた人々も)
この数にも含まれない多くの人々が、現在も様々な後遺症に悩まされているのです。
また、当局の死者発表数1754名というかけ離れた数字が、別の意味で心胆寒からしめます。(スラム街の人々は、死者としてすら認められていないのです。)
事件時にもカーバイト社は、毒ガスの成分を明らかにしませんでした。
それによって、インド中から救援に来た何百人もの医者達は、解毒剤の特定も出来ずに、多くの被害者達が苦しみ、のたうち、痙攣し、血の泡を吹き、死に絶えるのを見てゆくだけでした。
電話口から「助けてください。こちらは地獄です。」という悲痛な声が、阿鼻叫喚に混じり聞こえてきたそうです。
著者のラピエールは、「歓喜の街カルカッタ」(河出文庫)「パリは燃えているか」(ハヤカワ文庫)など優れたノンフィクションを書いてきた有名な作者ですが、この事件を知った20年前から後遺症に苦しむ人々のための病院経営や、人道支援の市民運動に乗り出しています。
この本の印税の半分は、その運動に使われるそうです。
それぐらい酷い事件だった、いや、現在も続く事件なのです。
本書は、様々な階層の人々を同時進行させてゆく物語で、作者の市井の人々へ向けた優しく、生活を慈しむ視線に、私自身知らず知らずのうちに親近感を深めて、きたる惨禍の回避を願わずにはおられませんでした。
事故後、まだ残っていた有毒な原材料をどう処理したら良いかの協議の時出されたアメリカ側からの案は、工場をすぐに再開して、残った原材料を使って殺虫剤を作るというものでした。
そして、再起動されたのです。(!)
もっとも恐るべき悲劇は、この国家や企業の発想と想像力なのかもしれません。
「人とその安全は、あらゆる技術的冒険の第一の関心事でなければならない。
そのことは、作図や方程式に沈潜しているときにも、けっして忘れてはならない。」
(アルバート・アインシュタイン)
本書は、20年前の惨事レポートではなく、2003年への警告です。
(2003年2月)
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