たまもの/神蔵美子 筑摩書房

神蔵美子が、前夫の評論家坪内祐三と現夫の編集者末井昭の間で揺れ動き苦しむその様を、写真と文章で表現した剛速球です。

言葉の人「坪内」と無言葉の人「末井」の間での彼女の戸惑いは、我々が言語と無言語の狭間にいて、そのどちらかに偏っていても常に不安と渇望の中にいることの証左なんです。
この作品の文章と写真は、図らずしもその事を我々に教えてくれます。
言語の外に根を下ろし、言葉でモノを考える。
言語の思考を使い、言葉で表現出来ない背景に引っかき傷をつけようと欲望します。
この2つが境界なく両輪化しているのです。

表現者達のどこか壊れている尋常でない行動や考えには、ちょっとついて行けないし、関わりあいたくないと思いながらその表現者達の表現したもの(文章、写真等)には、私が持っているあからさまな不安や畏れ、愛情、高揚感、嫉妬などが確かに表現されている事に驚かされます。
優れた写真集に出会うと、これは見てはいけない!見てしまったらもう後戻り出来ないぞ!という無主の声が聞こえます。
その恐ろしげな声は、知っていながら見ることを拒否している「私」へ、見ていながら知る事を拒否する「私」への誘いです。
そして、その二人の「私」の足元に長々と伸びる影の中にいるもう一人の「私」が、目を閉じ、耳を塞ぎ、口をつぐんだまま、じっと佇んでいるのです。

「写真は、三角関係なんだよ。」荒木経惟

私たちが生きているという事は、この引き裂かれた海をあてどもなく泳ぎ続けるという事なのかもしれません。

ジロジロ見ないで “普通の顔”を喪った9人の物語/撮影・高橋聖人 構成・茅島奈緒深 扶桑社

正直のところ、9人の写真を初めて見た時、直視してはいけない気になりました。
もちろんこのことは、9人に対して本当に失礼なことで、今までに彼ら彼女らが被ったいわれもない差別や屈辱が、周りの人間の同じような意識によるものだったと思います。
ごめんなさい。

「普通」と「普通じゃない」に厳密な範囲も根拠も無いことは分りますが、人が認識する上で唯一すがっている原則は、選別するという原理です。
選別するということは、AとBの差異(違い)を理解するということだと思います。
誤解を恐れずに言うと、私は「差別の問題」はこの人間の認識方法を視野に入れた論でないと、無効だと思っています。

言葉は、そのこと、そのもの自身の「存在」を指示していることと、そのこと、そのものの「意味」していることの両面を表現しています。
「リンゴ」は、「リンゴ」そのものと「リンゴ」の意味を表しているのです。

簡単に言えば、この「意味」の部分に人間の認識方法が反映され、「意味」は差異認識による細分化表現だとも言えます。

「長い」と「短い」の存在差には、「差別」はありません。
この「長い」をネガティブなイメージとしたり、「短い」に不良とする意味的なイメージの付加が生まれる時、「差別」の可能性は産声を上げ始めるのです。
また「長い」も「短い」も単なる計量の単位でしかないと認識を新たにしても、次には「長い」が故に社会的に有利であったり、「短い」に文化的意味が付いたり、時代的偏見が加わったりして、「差別」は低く押し殺した笑い声を獲得してゆくのです。

近年の障害者や被差別者の啓蒙書は、本人達の努力や周りの理解によって、この「長い」と「短い」に生まれてしまった安易な認識を逆転する視点を提出することによって、一般的に流布されている価値観の中和化の役を負っている様に思います。
私などは彼らの本を読むと、自分の中にある固定観念やその観念が生む無頓着な罪を再認識して深く反省するとともに、価値論をめぐる限界性に暗澹たる気になってしまうのです。

しかし、しかしである。
彼ら彼女らを襲った熾烈な一般認識は、故に自己弁護できるのか。

彼が電車に乗っていると、見知らぬ中年男性が彼の頭の上にツバを落とし、呆れて見上げると憎しみのような目で睨みつけられたといいます。
すれ違いざまに唾棄されたのが100回を越える彼の人生は・・・・

「仮面ライダー2号」を演じていた佐々木剛さんが載っているのですが、彼の手記の半ばまで読まないうちは私は気がつきませんでした。

以前「99年の12読書感想文」でも顔について書きました。
あわせて読んでもらえれば、幸いです。

『顔面漂流記アザをもつジャーナリスト』石井政之かもがわ出版
『人間にとって顔とは何か』レイ・ブル/ニコラ・ラムズイ講談社
(2003年3月)