脳に関しての話や宗教・政治についての本は、なかなか素人には取っ付き難く、読んでも専門的な用語やどこに繋がっているのか分からない文脈で、諦めてしまうことが多いです。
自分の理解力の無さを棚に上げて、もっとわかり易く説明してくれたらいいのに、と文句をつけていることもありました。
しかし興味はあって、面白そうな本に出会うとつい手に取ってトライするのですが、3割から5割が分かれば上等で、後はいさぎよく自分の頭では限界と、読了の達成感だけで自分を誉めていました。
しかし今回は違います。
両書ともずんずんと読み進める度に、スコスコと頭に納まり、今まで何に引っ掛かっていたのかと、自分で頭を傾げてしまうほどでした。
非言語的観念形成・空間構成概念などを司る右脳と言語・計算などの左脳の機能分担は知っていましたが、それをうまく使いこなすやり方を教えてくれた本は初めてです。
自分って頭悪いな〜とか、あいつはどうしてあんなに上手くやりこなせるのだろうな?などと考えるのは、しょっちゅうでしたが、それは右脳と左脳の片方だけを偏って使っている状態で、脳の統合的な能力(脳力)をまったく生かしきれていなかったからなのです。
(おお〜!そうだったのか〜!)
しかも、今からでも(大人になっても)脳は、飛躍的にその能力を発揮する可能性があるというのです。
そればかりでなく、そのためのトレーニング方法まで懇切丁寧に伝授してくれます。
決して遅くはない!この簡単な方法を地道に続けると、脳は生き返りブロードバンドの情報処理が可能になるようです。
近年は気持ちが落ち込む本が多かったのですが、これは久々に出会う自信と希望が与えられた本でした。
もう一方の宗教理解の本ですが、普通の単行本より少し大きめの版で、350ページほどある厚めの学術書なのに、通勤途中の電車の中で我を忘れて駅を乗り越しそうになったのは、1度や2度ではありません。
身近な疑問や本質的な問いが小見出しで列記してあり、長くても数ページのセンテンスで簡略に書かれていて、内容は深いのに巷のハウツー本のように、頭に納まってゆきます。
コリャ、どうした訳なんでしょう。
今まで、聞いたこともないようなカタカナ語やいかにも難しそうな論文の中の文章(あるにはあるのですが、流れの中で理解しやすいのです。)にお手上げだったなんて、夢のようです。
中東やアメリカやヨーロッパ、中国の動向がどうもきな臭く、理解し難い気持ちになっていたのですが、現在を考える大きな指標を与えられた書物でした。
さて、さて、さて・・・・・
上記に書いた紹介は、決して褒め殺しでもお世辞でも無いのですが、ふと胸に一抹の不安が残ったのです。
「分かり易す」すぎるのです。
分かり難いと文句をつけておいて勝手な言い草だとは重々承知していますが、理解できない難しい言い回しや説明は勘弁してよと思いながらも、あまりにもあっさりと平易に問題を説かれると、ちょっと待てよ!そんな簡単なことだったのか?と不安になってしまうのです。
大問題と小問題があるとすれば、大問題は大問題の次元で考え、小問題はその次元で処理をすることが、問題を理解・解決する一番手っ取り早い方法だと思っています。
一見小さな問題のように見えていたり、あまりにも身近な問題だったりしても、そこに大問題の本質が潜んでいることもありますし、講演会の大問題のような命題も、実は単なる相対的な視点でしかないことも多々あります。
もちろんここら辺の大問題と小問題の見極めが、各者の持論骨子となってゆくのでしょうが、どうもこの頃は様々な問題をシンプルに理解してゆくことに人気があるようです。
確かにシンプルに考えることは、風通しは良くなるでしょうし、多くの賛同も得やすいと思います。
ただそれは、あくまでも一時的に問題を見やすくさせたり、虚飾を剥ぎ取ったりする為であって、回答を得ることではないと思うのです。
現実の大小の問題は、妙にデコボコして圧倒的に不条理だし、言葉にならない素粒子のざわめきが囁き合い、決して固定化されない不確定な要素に満ちていると思っています。
掴み難いので無理に簡略化して問題を見ようとしますが、常に問題は不定型であることを忘れてはならず、その都度握った手を離し問題を解き放ってあげなくてはなりません。
私の感じた不安は、問題の「窮屈な泣き声」だったのでしょう。
さあ、抱擁は解くから、もう一度大空に飛び立つがよい!
また出会える日まで!
(2003年6月)
|