サリドマイド薬害運動の中心的役割を担ってきた著者による、痛恨の告白集である。
手に障害をもって生まれた息子を授かり、妻にも言えないままに綴った一通の手記が新聞に掲載されました。
「この子は、なん百なん千回となく、泣かねばならないだろう。ほかの子どもの健全な手とくらべて、この子はくちびるをかみ、まぶたをあかく泣きはらすだろう。それを思うとき、私もまた涙があふれる。」
始めは妻の被爆が原因だと思っていたこの手記に対して、全国からわが子も同じ症状だという手紙や電話が届き、子どもと共に親が訪れてくるようになります。
そんな親たちに働きかけて「子どもたちの未来をひらく父母の会」を結成、のちにその原因がサリドマイド系睡眠薬の副作用であると判明し、国と製薬会社を相手に様々な運動を行ってゆきます。
そして運動を続けるなかで、人間と人間の憎悪や妬み、誤解や中傷、私怨や離反が、襲いかかってきます。
常にその中心にいて、心血注いで働きかけていた著者だからこそ書き得た事実が、赤裸々に語れてています。
また、市井の障害者家族の想いや感情と、組織を維持推進してゆく立場の人間の視線のすれ違いも、何らかの形で共同体に身を置いた人間には、説得力があると思います。
著者は、優れたオルガナイザーであったと思うし、彼の具現化する政治力は余人をもっては不可能だったでしょう。
しかし、著者の元に送られた親からの手紙に書かれている批判は、執行部と会員の疎通だけではなく、あらゆる人間関係の困難さも語っています。
「自己の意思、思念、及び情報を伝達するにあたって、その内容が相手に十分理解され受け入れられるかどうかということに注意を払うべきでしょう。すなわち人というものは、一般に知的あるいは情緒的な枠組みをもっており、これらに適合するものを受け入れ、適合しないものは受け入れなかったり、あるいは適合するように歪曲して受け入れる。」
あらゆる社会運動や組織社会がもつ不条理は、個人を基底に持ちながら別次元の力学で軋みを上げながら邁進して行きます。
「政治の幅はつねに生活の幅より狭い。本来生活に支えられているところの政治が、にもかかわらず、屡々、生活を支配しているとひとびとから錯覚されるのは、それが黒い死をもたらす権力をもっているからにほかならない。」
(埴谷雄高『幻視のなかの政治』)
著者の運動の原点であり、生きている礎であった息子伸一さんは、2年間家族との連絡を拒み、人知れず孤独な死を迎えます。
この本が、サリドマイド運動史を縦糸とすると、息子さんに向けた悲しみの「問い掛け」が横糸として流れています。
何も答えない死もまた、不条理の歯車をまわして我々に降って来るのです。
私は、障害児関連の本を読むと、いつも本棚から『いのちはずむ仲間たち』を引っ張り出し見入ってしまいます。
何度写真を見ても、始めは彼らの手先や無い足に目がいってしまい、次第に自己嫌悪に陥ってしまうのです。
どんなに理解共感したりしても、欠損した手足に視線が向かなくなることは、ないと思います。
しかし、身体状態や考え方などを含めた「総体としての彼」と向き合い、関係が生まれることを、私は経験として知っています。
そしてそんな私は、彼らの輝く笑顔が眩しくて仕方ないのです。
イギリスのエスカレーターに張られていたポスターだそうです。
「ボクのことを、みんなダウン症児と言うのだけど、ボクの名前はベンジャミンって言うんだよ。」
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